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カテゴリー「歴史よもやま話」の記事一覧

坂戸城山頂の実城(本丸)  

『坂戸山案内図』赤線は城坂(大手道)・青線は薬師尾根道・黄色の線は寺ガ鼻尾根道。
坂戸山城案内図

『坂戸山の山頂と薬師尾根』写真左の杉は、案内図の1本杉。
坂戸山の山頂と薬師尾根

『坂戸山の山頂と城坂(大手道)の沢』沢の上部が桃ノ木平。
坂戸山の山頂と大手道

『山頂の実城(本丸)を仰ぐ』急峻そのものな小尾根が連続している。
山頂本丸

『実城(本丸)跡に建つ富士権現戦国期の築城の際に勧請されたか?詳細は不明。
実城(本丸)跡に建つ富士権現

『桃ノ木平(上屋敷跡)戦事の城主屋敷跡。東西50m南北70mの削り平の廓。湧水あり。
桃ノ木平(上屋敷跡)

『坂戸山を振り返る』中央に実城・左に桃ノ木平・左端の山は主水廓。雪上の足跡侘し。
坂戸山を振り返る

 坂戸山を中心に、尾根筋や山麓一帯に遺構群のある戦国時代の山城は、上田長尾氏の鉄壁の城塞で
した。昭和54年に国指定史跡となりました。     続きます。

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雪の坂戸城居館跡の石碑と石垣の復元工事  

 1月12日の「雪の坂戸城居館跡へ」のエントリでは、長々とした石垣が見えたところで続きとし
ました。今日は、その続きを辿ってみたいと思います。
 もうずいぶん以前になりますが坂戸城を、「要塞の山坂戸城1」「要塞の山坂戸城2」の2編にま
とめた事があります。IZAの頃のもので、引っ越したまま放ってありますから見難いと思います。


『史跡坂戸城跡の碑』堀直寄は、居館を中心に近世城郭に改修しました。
史跡坂戸城跡の碑

『上田五十騎発祥の地』謙信の養子景勝が、春日山城へ引き連れた上田長尾家臣団の精鋭。
上田五十騎発祥の地の碑

『石垣の復元工事中』新潟日報に修復の記事がありました。此方で読めます。
石垣の復元工事

『石垣に沿って移動中』東西110メートル、南北80メートルの城主居館跡。
石垣に沿って移動

『上杉景勝・直江兼続誕生の地の碑』景勝が生まれたのは、魚野川対岸の樺沢城です。
上杉景勝・直江兼続 誕生の地の碑

『石垣の北隅』こちら側も石垣の復元が始まっているようです。
石垣北隅

『居館跡から本丸を望む』新田氏一族(鎌倉時代)~上田長尾氏(南北朝騒乱後)~堀直寄(慶長3年(1598年)~慶長15年(1610年))騒乱の時代の終了とともに、棄却された要塞の山坂戸城です。
居館跡から本丸

 要塞の山坂戸城は、織田信長旗下の滝川一益に攻められても落ちず、小田原の北条氏政に攻められ
ても落ちなかった無敵の城です。この鉄壁の城も一度だけ落ちた事があります。謙信が越後守護代家
を相続したことを快く思わなかった景勝の父政景が、反旗を翻した時です。    続きます。

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雪の坂戸城居館跡へ  

 坂戸城は、坂戸山山頂の標高634メートルに本丸を、麓には平時の住居跡等の遺構が見られます。
魚野川をはさんで、三国街道を見下ろす交通上の要地でもありました。昭和54年(1979)6月11日に、
国の史跡に指定された上田長尾氏ゆかりの城です。
 長尾政景や息子の上杉景勝の居城として、また大河ドラマ天地人で有名になった直江兼続が幼少期
を過ごした城としても知られています。上杉謙信の姉仙桃院が嫁いだ城でもあります。
 慶長3年(1598)、上杉景勝は陸奥国会津へと転封になり、代わって堀秀治が越前北の荘から越後に入
り、堀直寄が坂戸城主を務めています。慶長15年(1610)堀直寄が信濃国飯山に移されると、坂戸城は棄却されました。その後、江戸時代を通じて、坂戸城に大名が置かれることはありませんでした。


『史蹟 家臣屋敷跡』山ウサギの足跡を追いながら、遠回りしてやって来ました。
家臣屋敷跡
 杉の枝葉に付いた雪が、雫を垂らしながら時々雪を落とします。
家臣屋敷跡2

『石材置き場』説明に在るように、修復用の石在が集められています。
石置き場
 薄く雪を被った石材の間に、足でも突っ込んだら大怪我をします。くわばらくわばら。
石置き場2

『御居間屋敷跡』「おんま」は、御居間の方言です。雨のように雫が垂れるので行きません。
御居間屋敷跡
 居館跡へと参りましょう。
居館跡へ

『居館跡』長々とした石垣が見えて来ました。現在修復中だと聞きました。(雪の季節はお休み)
居館跡

 ゆるやかに月日流れて幾百年 兵どもが址をば追うて  続きは後日に。(^^)v 

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長森原の管領塚  

 永正6年(1509)7月、関東管領上杉顕定は、謙信の父長尾為景に討たれた弟越後守護上杉房能
の仇討ちを名分に、越後に攻め入り府内を制圧した。しかし、顕定の越後統治は強硬で国人の反発
をまねいた。翌永正7年(1510)6月20日、長森原の合戦で為景に敗れ自刃する。

 越後守護家から関東管領家の家督を継ぎ44年。山内上杉家の武威を高めた上杉顕定は、越後魚沼
長森原の地にて没す。享年57歳、戒名は海龍寺殿皓峯可諄大居士。


『長森原』坂戸山城と六万騎山城との間の野が長森原。六万騎山西郭跡の山頂より眺める。
長森原

『管領塚史蹟公園』管領塚と伝わる関東管領上杉顕定の墓を整備し公園化したもの。。(約800㎡)
管領塚史跡公園

『関東管領上杉顕定公墓所』公園に整備されたとき、元の塚を移築した。
関東管領上杉顕定公墓所

『追悼碑』昭和63年10月吉日とあった。
追悼碑
 上田とは、南魚沼市六日町付近の古名である。
上田史談會

 新潟県南魚沼市下原新田の周辺には、かつて長森原の戦いの戦没者を埋葬した伝承をもつ塚が点在
していた。(下原百塚)その中で一際大きな塚が管領塚と呼ばれ、上杉顕定の墓と伝えられていた。
 近代に行われた発掘調査では鎧通しの他、武具や人骨も出土したいう。現在の管領塚は、史跡公園
として整備されたとき元の塚を移築したものである。


『長森原からの坂戸山』
坂戸山
『坂戸山山頂部』
山頂部

 関東管領上杉顕定は、此方でご覧ください。

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不思議な石碑  

『不思議な石碑』てんまる杉の傍には、こんな立派な石碑が建てられていました。
石碑
 石碑の文字が、読めそうで読めないもどかしさ。右の文字と文の読みを、何方か教えて下さい。
碑の文字
 石碑の裏面に掘り込まれた御沙汰書の写し。北越戦争で戦死された方の招魂の石碑だったのです。
お沙汰書写
 菫役者と彫ってあるが、意味と読みが判らない。ぼんくら無才の地金は無教養。(;_:)
薫役者

 戊申の役で、越後長岡藩を主力とした東軍と長州、薩摩を中心とした西軍が、凄惨な戦闘を行った
のが北越戦争です。その戦争に、魚沼の各地から西軍に軍夫として駆り出されたり、自ら志願して加
わった者が居たことは知っておりました。
 てんまる杉の大崎村からも、西軍に参加された方が居られたのですね。そして戦死されて、薩摩藩
本営から招魂祭料を贈られたと言うことが、石碑に彫られた御沙汰書写で分かりました。
 戊申の役で日本の内戦が終了した分けでは無く、元司法卿江藤新平の佐賀の乱や西郷隆盛の西南戦
争を経て、明治の世が落着いた分けです。西南戦争に際しては、元会津藩士が多数政府軍に参加し、
戊申の敵討ちを称して活躍したと云う話もあります。
 明治維新は、侍が侍の世を否定し、侍の世を終わらせた戦争です。しかし草莽の中にも、志を持っ
て身を処した方が大勢居られたと、改めて感じさせられた不思議な石碑を此処で見ました。

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てんまる杉の庚申塔  


『庚申塔(青面金剛)Wikipediaによると、庚申塔の建立が広く行われるようになるのは、江戸時代初期(寛永期以降)頃か
らでです。その後、近世を通して多数の庚申塔が建てられました。当初は青面金剛や三猿像のほか、阿弥陀、地蔵など主尊が定まっていない時
期を経て、青面金剛像が主尊の主流になっていきます。江戸中期からは「庚申塔」や「庚申」と文字のみ彫り付ける形式が多くなりました。

『二十三夜塔』「道祖の神と石神様たち」 西川久寿男著によると、18世紀の後半から昭和の初期にかけて、日本の各地で「講」
を組織した人々が集まって、月を信仰の対象として精進・勤行し、飲食を共にしながら月の出を待つ月待ちの行事をしました。その際に、供養
のしるしとして建てた石碑(月待塔)のひとつが、二十三夜塔です。
 崇拝の対象として、二十三夜は勢至菩薩を本尊として祀りました。勢至菩薩は、智慧の光をもち、あらゆるものを照し、すべての苦しみを離
れ、衆生に限りない力を得させる菩薩といわれています。

『てんまる杉の庚申塔と二十三夜塔』路傍に残る、江戸時代に花開いた庶民文化の一つ
です。この地に住まう人々の、願いや苦しみ、喜びを聞き続けて来た青面金剛と勢至菩薩です。 

庚申塔(青面金剛)と二十三夜塔

 この他にも興味深い石碑が在りましたが、それらは次回に譲りたいと思います。

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北国街道散策~最終回  

 江戸時代脇街道として発展した北国街道の散策記でしたが、街道の全体から見れば点のように短い
所を歩いただけでした。その点のような所に幕末期、越後国蒲原郡43カ村を領した三根山藩と云う
1万1千石の小さな藩がありました。
 三根山藩牧野氏は、寛永11年(1634)、越後長岡藩初代藩主牧野忠成 の四男定成が、蒲原郡三根
山に新墾田6千石を分与され分家したのに始まります。 領地が1万石に満たないことから大名では無
く旗本寄合席として長らく存続していました。
 幕末の文久2年(1863)年、領主牧野忠泰は、新たに新田開墾分5,000石を打ち出して、高直しに
より1万1千石の三根山藩を立藩します。藩庁は三根山陣屋に置かれました。廃藩置県時には、士分
格式60人、卒分格式124人がいました。
 長岡藩初代藩主牧野忠成は、与板(後に小諸移封)、三根山の二つを一代で分家させました。しか
しながら諸侯として二つの分家が召し出されるのは恐れ多いと、三根山は当初から実質1万1千石の
石高がありながら遠慮してこのような仕儀となったと、幕末の三根山藩文書に説明されていると云う
ことです。
 戊辰戦争では宗家の長岡藩に近い立場でしたが、新潟、長岡が相次いで陥落すると慶応4年8月に
新政府側に恭順し新政府軍の庄内藩征伐に出兵しています。庄内兵に茶塚から大砲を向けられ、寺泊
戦線へ同行を迫られた意趣返しの形になりました。
 長岡藩は北越戊辰戦争敗戦後に、極度の食糧不足に陥っていました。それを救うため三根山藩は、
急遽100俵ほどの義援米を長岡に送り届けました。その義援米を、長岡藩が人材育成に当てたこと
が、後に戯曲化されて「米百俵」の美談として世に知られるようになりました。


『長岡藩へ米百俵を送った三根山藩』
三根山藩址
三根山藩址2クリックして読んでください。
稲山陣屋(藩庁)
『上に掲げた図や説明文は、写真右の立て看板からです。』
三根山藩址3
『四阿で休憩したかったのですが、三根山藩庁址へと進みます。』
三根山藩址4
『建物は残っていませんが、立派な三根山藩址之碑が建っています。』
三根山藩址の碑

『米百表の碑』牧野家14代博基書とありました。昭和59年の建立です。
米百票の碑
米百票の碑銘板クリックして読んでください。
『さて、ようやく北国街道散策シリーズを終えることが出来そうです。』
北国街道散策

「あとがき」
 三根山藩が、疲弊した長岡藩を救うべく送った米百俵が戯曲化されて、小林虎三郎をはじめとする
長岡藩が、その米を食うこと無く人材育成に使った事が美談化されています。しかしながら、その米
を送った側のことは、あまり知られていないように思います。
 米百俵を送った側の三根山藩が、富裕だった分けではありません。戊申北越戦争後の混乱期に、よ
り疲弊していた本家の長岡藩の人たちの窮状を見かねての義援米だったのです。送った方も送られた
方も、その行動は、間違う事無き日本人ではありませんか。そんなことを考えながらの、今回の北国
街道散策でした。冗長な散策記に、お付き合い頂いて、ありがとうございました。

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北国街道散策~5  

 北国街道散策記も5回目になりました。歩いている所は、お気付きの読者も居られると思いますが
旧三根山藩領(新潟市西蒲区)の一部です。今回は北国街道~2で、戊辰戦争で寺泊方面へ出兵する
庄内藩の兵に、大砲を向けられて同行を迫られた三根山藩の藩庁址を訪ねてみました。


『三根山藩址公園』広々とした芝生の広場の背後の山は、雪割草で有名な角田山です。
三根山藩址記念公園

『三根山藩址標柱』
三根山藩址標柱

『三根山藩址之碑』小高い所に立派な石碑が建っています。
三根山藩址

『旧藩記念庫』財団法人三根山有終団の手によって管理されているようです。
旧藩記念庫
三根山有終団
 検索してみると『この法人は、新潟市西蒲区峰岡在住士族旧三根山藩士が共有してきた資産を継承
し、祖風を受け継ぎもって旧藩士の面目を保持するとともに、地域の発展に寄与することを目的とす
る。』とありました。


『旧藩時代の人々の碑』説明文は、クリックして読んでください。僅か1万1千石の小藩に
も拘らず多士済々に驚きます。まだ他にも在ったようですが、写真に撮っていませんでした。


豊原又男
豊原又男生誕の地記念碑

新保正与
新保正与顕彰碑

佐藤茂富説明
佐藤茂富碑

 5回目で切りが良いので「北国街道散策」は、今回でと思いましたが終えることが出来ませんでし
た。次回は最終回にしないと、そろそろネタが尽きてしまいます。「歴史よもやま話」は、あんまり
人気が無いのですが時々これをやらないと「古今往来」の名が廃りますから。(^o^)/

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北国街道散策~5  

 お地蔵さんが二対も在った隆崇寺を後にして、一山寺(ひとやまでら)へと向かいました。このお寺さん
は、三根山藩牧野家の領内の菩提寺です。代々の領主の五輪塔も並んでいました。もっとも三根山に
陣屋を置いた領主の牧野氏は、長岡藩牧野家から6000石で分家した交代寄合席の旗本でした。幕末
に至って、1万1千石の三根山藩を立藩し諸侯に列しました。
 元禄の頃、一山寺第四世順誉上人(団嶺和尚)は、自ら自然石に観音菩薩を線刻して、寺の裏山に
西国三十三霊場を模した脱苦山霊場を開いたそうです。


『一山寺』本堂の大屋根下の壁に、三柏紋が掲げてありました。三柏紋は、牧野氏の家紋です。
一山寺

 山道を登って行くと、道端に立派な説明文が建っていました。
線刻
 団嶺和尚が刻んだ線刻三十三観音について記してありました。
説明文

『線刻の観音様』どこに彫られているか、
線刻1 

                                サムレイルですからクリックして大きな画像で、
                               線刻2
 観世音菩薩を拝してください。
線刻3見られましたか?

 説明文にあった山上まで行き、開基標の文字を写して来たかったのですが途中で心が折れました。
時間も押していましたし、竹林の道は薄暗くなり始めていましたから。     続く。

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北国街道散策~4  

 北国街道散策も、飛び飛びですが4回目になりました。今回は、茶塚を探して歩いていたときに、
お地蔵さんに魅かれて立ち寄ったお寺さんです。昔は、この辺りを領していた三根山藩牧野家の祈願
所であったそうです。遠くから御本堂を拝しただけでしたが、往時の面影が残っているようです。


『お地蔵さん』二対のお地蔵さんが、お寺の
お地蔵さん1入口の左右に鎮座しておりました。(サムネイル)
                               お地蔵さん2
『葷酒山門に入るを許さず』裏面に、文久二戌年五月 十八世代とありました。
葷酒山門に入るを許さず

法誉山 隆崇寺本堂』三根山藩牧野家代々の祈願所です。詳しくは下の説明文で。
本堂
説明文説明文は、クリックで別ウィンドウが開きます。

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北国街道散策~3   

 巻菱湖(まき りょうこ)wikiによると、安永6年(1777年)~天保14年4月7日(1843年5月6日)』は、
江戸時代後期の書家です。越後国巻(現在の新潟市西蒲区)で生まれました。
 菱湖は篆書、隷書、楷書、行書、草書、仮名のすべてに巧みで、特に楷書を得意としました。平明
で端麗な書体は、千字文などにより、世に広く書の手本として用いられ、「菱湖流」と呼ばれていま
す。その書風は、幕末から明治にかけての書道界に大きな影響を与えました。
 明治政府や宮内庁の官用文字、欽定文字は、従来の御家流から菱湖流に改められました。菱湖の門
下生は1万人を超え、市河米庵、貫名菘翁と共に「幕末の三筆」と並び称されています。


    『五言律詩行書双幅』巻菱湖書            『五仙騎五羊』巻菱湖書
『五言律詩行書双幅』巻菱湖書 『五仙騎五羊』巻菱湖書

 巻菱湖記念時代館については、こちらをご参照ください

 将棋の銘駒と呼ばれる駒の書体の1つに、菱湖流が用いられています。タイトル戦などで使用され
る高級な駒に用いられていて、中原誠を始め、この書体を好む棋士も多いと言うことです。



 巻菱湖のことについて、前置きがずいぶん長くなりましたが「歴史よもやま話」ですのでご容赦く
ださい。それで、前回の「歴史よもやま話~2」を、思い出して頂きたいのです。それは此方です
 茶塚や庚申塔の前の、北国街道と思われる道を暫らく行くと、新潟県で一番古いゴルフ場の新潟ゴ
ルフ倶楽部があります。その片隅に、巻菱湖の生家跡を記した表示が建っていました。今回のエント
リは、それを見た時から何時か紹介しようと思っていたのです。


『北国街道の跡と思われる道』農作業道として、今でも使われているようです。
北国街道

『巻菱湖の生家跡の表示』これを見なければ・・・
巻菱湖生誕の地

『新潟ゴルフ倶楽部』菱湖の生家跡の隣では、楽しそうにゴルフをしていました。
ゴルフ場

『三根山藩調練場跡』後日、このゴルフ場でプレーをした際に見つけました。
峰山藩調練場跡 

『角田山と新潟ゴルフ倶楽部』2016年9月10日15時26分の空模様です。
角田山と新潟ゴルフ倶楽部

 北国街道散策は、まだまだ続きますが(続くんだろうな!)、今回はこの辺までと致します。お付
き合いを頂いて、ありがとうございました。


                         新潟ゴルフ倶楽部の歴史については、此方をご覧ください。

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北国街道散策~2  

『庚申塔』嘉永2年(1849)建立とありました。庚申塔については、此方をご覧下さい。
 嘉永2年と言えば、天皇は孝明帝です。江戸幕府の将軍は、徳川家慶でした。時代を揺るがす幕末
の騒動を、ペリー来航からとすると嘉永6年まで待たねばなりません。この頃の日本は、未だ太平の
世の中でした。太平と言っても眠っていた分けでは無く独自の庶民文化が花開いていたのは、田舎の
路傍に建つ石碑を一つ見ても頷けます。

庚申塔

『北国街道(茶塚地蔵様)庚申塔の目の前に建っていました。
北国街道

『茶塚の説明板』茶塚の上は現在墓地でしたから、子育て地蔵の写真を撮っていません。
茶塚

『三根山藩庁址』茶塚の上から杉木立を透かして見ると、ここに大砲を据えられては、お手上
げの近さです。説明板にあった通り戊辰戦争時のエピソードですが、僅か1万1千石の小藩の悲哀を
感じさせられました。またここは、説明板によると、人の往来が煩瑣な北国街道沿いということで、
三根山藩の罪人を打ち首にした首の晒し場でもあったようです。

三根山藩庁址

 北国街道の道筋は、おおよそ分かっているつもりでしたが、その道が全て残っている分けではあり
ません。道筋に当たる所に残されている石碑や遺構、それに説明板などが無いとただ歩くだけに成っ
てしまいます。それらを整備されている関係者の方々に、深く敬意を表します。   続く。

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北国街道散策~1  

『丸亀製麺・釜揚げうどん』此処は新潟県長岡市郊外。丸亀は讃岐国、香川県ですよね。
香川県と言えば、うどん県で売り出し中です。丸亀製麺は、丸亀にちなんでいるが丸亀市とは関係な
いとも聞くし、やや混乱します。
 香川県やうどん県より、讃岐国と言うと畏敬の念を持たされます。何故って、金毘羅様もそうですが、高野山を開いた真言密教の開祖、佐伯眞魚こと弘法大師空海の故郷でありますから。

車から

『北国街道散策』北国街道(ほっこくかいどう)とは、江戸時代の呼称で畿内から越後へ至る北陸道のこ
とです。北端は直江津(上越市)でしたが後に延伸されて渟足柵(新潟市)まで、更に鼠ヶ関(山形県鶴岡市)までと
なりました。ちなみに、鼠ヶ関より先は 羽州浜街道となります。

北国街道散策
 民間伝承では、弘法大師は全国を行脚されて、衆生をお救い為されたことになっています。
弘法の清水
 弘法大師は、日本の史上最大のスターだと思います。
弘法大師像
 弘法大師が錫杖で突いて、湧き出させたと云う弘法清水を訪ねてみました。
弘法清水
 今も滾滾と冷たい清水が湧き出ています。一口飲ませていただきました。
弘法清水2

 弘法清水の在る所は、新潟県西蒲原郡巻町です。2005年10月10日、新潟市への編入合併で現在
は、新潟市の政令指定都市移行により西蒲区の一部となっています。巻町の名前は、一時全国ニュー
スでも流されましたから知っている方もいるかと思います。
 北国街道散策の写真の中にも出ていますが、角田山と言う雪割草で有名な山が在ります。その山の
海側に、東北電力が原発を建設しようとしたのを、住民投票で阻止したのが巻町です。
 現在は広大な東北電力の所有地が在りますが、集落が一つ丸ごと消滅した跡です。そこまで足を延
ばしてみようかと思いましたが、時間に余裕が無くて行けませんでした。
「北国街道散策~1」としましたから、~2も何れアップしてみたいと思います。では何れまた。

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魚野川と信濃川~2  

『川合、出合、合流』川と川の合流点。信濃川と魚野川が合わさるところ。
川合、出合、合流点

 信濃川と魚野川のような水量の多い大きな河川が合する所は、古の人たちも何事かを感じていたので
あろう。その証拠に川が合流するところが眺められる高台に、川合神社と言う古社が存在した。いや神
社は今でもあるが、上越線の開通に伴い高台から百米ほど川に寄った現地点に移転している。
 川合神社は由緒不詳であるが、雄略天皇二十二年(478年)の創立と云われる。農耕神の水波売命と
武神の武御雷命が祀られ、延喜式神名帳に、魚沼五座の一つと記されている。
 前九年の役(1051年〜1062年)、八幡太郎源義家が奥州へ蝦夷征伐に向かう折、川合神社に立ち寄
り愛馬の泥障(あおり)を奉納し武運を祈った。と云う伝承が残されている。そのことから川合神社は、
泥障(あおり)様とも呼ばれる。
 弘治2年1556年、上杉謙信が川合神社を陣地に、魚沼郡の仕置きを行った際に、源義家の二尺二寸の
太刀一振と「みなもとの おなし流れの 水面に 照りそう月も 川合の神」の歌を献じたと云われる。


『いつの日も神をおもえば爽やかに』句碑があった。
句碑

『中部北陸自然歩道』川合神社の由緒と句碑の道の案内が記されていた。
説明板

『蒼丘の杜公園』温泉施設やオートキャンプ場、運動公園が整備されている。17基の句碑を辿っ
て、段丘上の旧キャンパス川口まで2.5kmの道程がある。

キャンパス川口

『鳥居から川合神社』天水速女命がこの地へ来る際に、川を流れて来て、山芋のつるにつかま
り、川から上がったと云われる。

川合神社
『狛犬と川合神社』それから、神は山芋を好むようになった。それで歳の数だけ山芋を奉納する
と、一生に一度の願い事を必ず叶えて貰えると云う。

狛犬と川合神社

『延喜式川合神社碑』古い石碑も建つ。
延喜式川合神社碑

『石碑』まだ新しい石碑も建っていた。
石碑

『上杉謙信公の御歌』「みなもとのおなじ流れの水面に照り給う月も川合の神」疑うことなかれ。
謙信公の御歌

『桜並木と上越線』川合神社の境内であった所を、川口駅に向かって走る上越線。
桜と上越線

『かっての跡地付近から現川合神社の杜』と思われるだけだが。
線路越しに川合神社

『かっての名残か怪しい小山』みんなそれらしく見えるが、本当のところは判らない。
線路脇の怪しい小山

 三国街道の宿場町だったから多くの人が参拝し、神社の木陰で休憩したりしていたと云う。
 川口まつりは川合神社の祭りで、子供神輿、女神輿、源義家を模した武者行列などが行われる。

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魚野川と信濃川~1  

 大きな川が出合うところは、それだけで何事かを感じさせられてしまう。越後川口には、信濃川と魚
野川の出合がある。そこを眺めると、慣らされていない風景の荒々しさに圧倒される。
 信濃川の本流は、地下を潜って千手発電所、小千谷発電所に運ばれている。全ての水がこの出合を流
れたら、どんな景観になるのか想像したくなる。
 大正時代のころまでは、新潟湊から信濃川や魚野川に荷舟が上下していた。江戸時代には、川口村に
舟番所が置かれていたとも聞く。


『信濃川と魚野川の出合』信濃から流れ来た川と南北魚沼の野を潤してきた川が合流する。
川が出合う所

『二つの川の出会いを拡大』信濃川を跨ぐ西倉橋(下)と関越高速道路(上)。
出合を拡大

『山本山と桜と信濃川』桜が咲く付近には、関越高速道路川口ICがある。
信濃川と桜

『蛇行して流れる信濃川』この先小千谷までは魚沼の内、長岡の野に出ると川幅広く水浅い。
信濃川は流れる

『西川口の家並み』信濃川右岸の端は、魚野川左岸の始まり。
川が合する所

『桜咲く魚野川左岸』此処より少し下流の段丘上には、旧石器時代の荒屋遺跡がある。
桜と魚野川

『川口橋と飯山線鉄橋』川口橋は海抜58mです。大昔は、この辺りまで海だったらしい。
川口橋

『堤防と三国街道と越後川口宿』大河が交わる所の町。そう言えばこの町には、上杉謙信が
魚沼郡の仕置きをした折に、陣地に使ったと云われる延喜式内社の川合神社がある。

川口の桜

 長岡市川口地区と言うより、北魚沼郡川口町の方が我々には言いやすいが、平成の大合併のせいだか
らしょうがない。でもまあ、長岡市に編入合併しても魚沼米の産地であることは変わらない。
 桜の季節はもうすぐ終わるが、5月になれば早苗が風に揺れる季節が来る。

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三国街道の里・和南津  

【三国街道の里・和南津】古事記 の 説話で、罠網で鵠( くぐひ )を捉えたとする「高志和
那美水門」(こしのわなみのみなと)
の伝説の地とも云われる。

和南津
『和南津のカーブ』旨いラーメンつり吉の店が見えると、三国街道は、大きなカーブになる。
和南津のカーブ
『生鮮食料品の商店』小さな集落で、スーパーマーケットの役割をしているようだ。
此処を曲がれば魚野川
『魚野川を渡る和南津橋』この絵は、3月10日の撮影でした。他の絵は、4月8日です。
少し前の風景
『和南津の山は、萌え始めたところ』萌え始めたブナの淡い緑が目に優しくうつる。
萌え始めた山
『桜も咲いていた』山桜とソメイヨシノが、隣り合って咲いていました。
桜も咲いていた

 和南津は、現在は長岡市に編入された川口町の一集落です。三国街道が魚野川を渡る位置にある集落ですから、越後長岡やその他の大名たちの大名行列の難所だったと思います。渡し場の位置が何処であったかまでは調べていませんが、賑々しいことであったろうと夢想してみるのも一興です。

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信濃川と魚野川が交わるところ  

『信濃川雪の出合や魚野川』
信濃川と魚野川の出合
 魚野川左岸の段丘が途切れ、写真奥から流れ来る信濃川に合流している。今から一万数千年以上昔
の日本海の海岸線は、この辺りまで入り込んでいたようです。
 この信濃川と魚野川が合流する河岸段丘上には、旧石器時代の遺構が在り荒屋遺跡と名付けられて
います。細石刃や彫刻刀形石器など約10万点の石器が出土して、中でも彫刻刀形石器は、特徴的な形
で荒屋型彫刻刀と名づけられています。 荒屋遺跡の出土品はこちらで見られます。


『雪に埋もれる荒屋遺跡』12月21日の撮影です。その後、雪が積もるほど降りません。
荒屋遺跡
 荒屋遺跡には、目立った表示も何もありません。西川口保育園(だったかな)の方に、遺跡の場所を聞いて、一枚だけ写真を撮りました。

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越後毛利氏・安芸毛利氏発祥の館跡  

 さてさて今回は、いや今回も写真の多い歴史よもやまブログです。
 タイトルにある越後毛利氏については、越後毛利北条氏の居城だった北条城址を巡る旅で何回か紹
介しています。今回紹介する越後刈羽郡(古名は三嶋郡)佐橋荘南条の毛利氏の館跡は、安芸毛利氏
(長州毛利氏)の発祥の地でもあります。
 鎌倉幕府の重鎮であった大江広元の孫、毛利経光が佐橋の荘の地頭として南条館に居たことは、以
前の古城祉散歩で書いています。


『南条館が在った丘』この丘が越後毛利氏、安芸毛利氏発祥の地です。
 宝治合戦で敗れた大江広元の四男毛利季光の四男経光の家系が越後、安芸の毛利氏の祖です。

南条の毛利館跡
 丘の入り口には、佐橋神社とごぼう庵の標柱が門になっていました。ワイドで撮った一枚を、どこ
かへ紛失し変な写真の配置です。神社の名前に佐橋荘の名残を感じます。

佐橋神社入り口  ごぼう庵入り口
 坂道の途中、左手の高台に、佐橋神社が見えて来ました。
左手高台に佐橋神社
 坂を上ると、こんな物がありました。左に曲がって、もう少し上れと言うことのようです。
正面に毛利氏供養塔案内

『毛利氏供養塔』建立された関修さんは、仕事の関係で福島県いわき市に移住されたそうで
す。供養塔の後ろに見える建物は、ごぼう庵です。

毛利氏供養塔
『墓誌』         越後毛利氏系図  安芸毛利氏系図
墓誌
『供養塔建立趣意書』
毛利氏供養塔建立趣意

南条いにしえロード5 佐橋神社
佐橋神社
 土塁跡のような土盛りを、神社の周りで見かけました。
土塁跡?
 空堀の跡でしょうか?現在墓地になっている手前で見かけました。
空堀の跡?

南条いにしえロード7 佐橋神社境内で出土した頭骨を供養した碑
城址殉難者碑

 小出(魚沼市)に去った庵主様がおられたことに、縁を感じさせられました。
南条いにしえロード6

 現在この辺りは、柏崎市になっていますが幕末戊申の役の頃の柏崎は、桑名藩の飛び領地になって
いました。桑名の城は、いち早く西軍に押さえられたので京都所司代だった藩主の松平定敬は、柏崎
で西軍を迎え討ちました。戊辰戦争史で云う柏崎戦争です。攻める西軍の長州藩兵は、この地が藩主
の祖先発祥の地だと知っていたかどうか・・・。

 

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北条 西方寺にて  

『柏崎市北条・西方寺本堂』12月7日の撮影です。雪国ですから冬囲いが施されています。
西方寺2

『学童集団疎開記念碑』西方寺の本堂と庫裏との間に建てられていました。
学童集団疎開記念碑

 昭和19年(1944)6月30日、政府は「学童疎開促進要項」を閣議決定しました。疎開区域の国民学校初等科3年生以上の子供たちを、疎開させることにしたのです。
 疎開区域とは、東京都の区部、横浜市、川崎市、名古屋市、大阪市、尼崎市、神戸市、と現在の北九州市(当時は門司、小倉、戸畑、若松、八幡の各市)でした。


 学童の疎開は、縁故疎開が原則でしたが縁故疎開が出来ない者には、強度の勧奨による集団疎開がありました。いずれにも参加できない者には、必要に応じて集団避難を実施することになりました。それには、疎開や避難する側も受け入れ側も、ともに共同防衛の精神であたることを求められていました。

 疎開とは、軍事用語で分散して闘いをすすめるという意味の言葉です。歩兵操典では疎開戦闘を、小隊や分隊の間隔を開けて敵火力の効果を弱め、味方の突撃力を発揮させる歩兵の主要な戦闘方式と規定していました。
 時の政府は、空襲による被害を避けるための措置として、疎開という軍事用語をあて、戦闘の一環であることを強調したのでしょう。


『西方寺境内散歩』本堂入り口に、落雪よけの冬囲いがしてあります。
西方寺

『歌碑なのか句碑なのかさえ判らぬが 流れるようなその筆の跡』読める方は、内容を教えてください。
歌碑

『本堂の彫刻』本堂の右隅です。冬囲いが無ければもっと見えるのですが。
彫刻
『彫刻2』本堂の中央辺りだったかな。
彫刻2
『彫刻3』本堂の左隅です。
彫刻3

『鐘楼』茅葺屋根が苔むして良い感じでした。
鐘楼

 西芳寺は、真宗大谷派の寺院です。鐘楼の苔むした茅葺屋根に誘われて、立ち寄ってみました。

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米山検校最終回~三羽の鷹  

 信越本線長鳥駅から、車で10分ほどの杉平の能満寺に来ています。
能満寺1
 開山から500年もの歴史があり、現在の本堂が建てられて、300年になるそうです。
能満寺2
 曹洞宗長昌山能満寺の本尊は、秘仏三虚空蔵菩薩です。 住職一世に、一回限りの開帳が許されているそうです。そう言えば、この寺で少年時代の米山検校が学んだ。と言う逸話が残っていました。
能満寺3

 越後の僻村で生まれ、幼くして光を失った少年(米山検校)の子孫(曾孫)の一人に、剣聖と謳われた男谷下総守 信友、通称精一郎が居ます。
 精一郎は、文化2年(1805)8歳で剣術を直心影流12世の団野源之進に学び、文政6年(1824)に、麻布狸穴で道場を開いています。それまでの形稽古から竹刀稽古を奨励し、現在の剣道にも影響を与えています。
 江戸の剣術界で立ち会ったことの無い者は居ない。と言われるほど他流の者とも試合をしました。その試合では、三本のうち一本は必ず相手に打ち込ませて、花を持たせています。門下に、島田虎之助、榊原鍵吉などの幕末の剣豪が居ます。
 精一郎は、体格は小柄でしたが相撲取りの雷電と押し合いをしても負けなかった。と言う逸話を、何かで見た覚えがあります。

 勝左衛門太郎惟寅、通称小吉、隠居名は夢酔。あの勝海舟の父親で米山検校の孫です。前述の男谷精一郎は、甥になります。晩年に、「平子龍先生遺事」「夢酔独言」などの著書があります。
 酒はあまり好まず博打もやらなかったが、吉原遊びを好み、着道楽で、喧嘩を好み、腕っぷしも剣の腕にも優れ、道場破りをして回り、不良旗本と恐れられた。とwikiにもありました。お洒落で、女好きで、喧嘩が好きで強かった。と言うことですね。
 強いと言っても、小吉の強さは半端ではありません。男谷誠一郎は、当時の江戸で力の斎藤・位の桃井・技の千葉と称された三大道場をもってしても歯が立たない。といわれた達人です。その精一郎を、小吉は片手で捻ったそうですから凄まじい強さです。
 新門辰五郎に、「喧嘩で右に出る者は無い」とまで言わせた男だから、その強さは、幕末最強だったのではあるまいか。
 
 勝安房守義邦(明治維新後、改名して安芳)、通称は麟太郎。勝小吉の子で米山検校の曾孫です。その他には、世に知られたことばかりです。
 海舟は、明治になってから曽祖父の米山検校の生家に、問い合わせの手紙を書いたそうです。生家では、伯爵と言う旧大名家にも匹敵する地位を憚って、彼の米山検校とは一切の関係がない。と返事をしたそうです。真偽のほどは判りません。

 さて、これで峠の米山検校御礼塔からの長い旅が終わります。何故か杉平の御礼塔の傍に、苔むして鎮座していた馬頭明王の憤怒の形相が印象に残っています。

石仏
 

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