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木呂流しの話  

     

 以前にも紹介しましたが、昭和13年発行の郷土読本です。

現在で言えば、小学校5年生から中学校2年生を対象にした

全22課の社会科の副読本です。

当時は尋常小学校と青年学校の学童、生徒に、郷土をより深

く識り、さらに発展させて行ってほしいという願いが込めら

れていたように思います。

 この中の第18課に、「木呂流し」があります。今回はそれ

を紹介して、「ボイコロの話」の締め括りと致します。

 

 

         「木呂流し」

 

 弥生3月ともなれば、同じ日本でも南の国は桃咲く里に、

れんげ草、よめ菜、土筆など春の匂いをただよわせ、卯月4

月ともなれば桜の花ぐもりとなるのに、その頃の我が里は残

雪に埋もれてまだ春は遠い。われらが里の特産木呂切りはこ

の頃からそろそろ始るのである。

 

 入広瀬村を流れる破間川(あぶるまがわ)、黒又川を遡る

こと十里、谷又谷、山又山の其所が木呂の伐採地である。此

の外、大白川新田から平石川の上流ニ・三里の山奥の毛猛山

浅草岳の山麓も大きな伐採地である。

 

 亭々空を摩すようなブナ林が、これ等の川に姿を投げてい

る様はむしろ尊い気分を抱かせる。村人はこの鳥も通わぬ山

奥に掘立小屋を造り、そこで木呂の切り出しをするのである。

 

 梢を渡る山風の音とブナの大木を伐る鋸の音とが聞え、や

がてどっとばかりに伐り倒される地響きは恐ろしい木霊とな

って響き渡る。伐り倒された大木の大部分を1尺2寸、3尺

4寸又は3尺等に、それぞれ需要に応じて挽かれる。これが

即ち木呂と称するものである。

 

 この木呂は雪を利用して多くは橇で川の本流まで運搬され

るが、本流から遠く離れている所では、一時小沢まで運んで

置く。運ばれた木呂は、本流の側のものはその川端に、小沢

のものはその小沢の中に積み重ねられて、雪が消えて乾燥さ

れるのを待つ。

 

 「木呂伐は又一伐りかえし」という方法もある。これは伐

採した木を枝をつけたまま放置する。やがて木の芽がふく頃

になると、伐られた木も水分のある限り小枝々々に若芽をつ

ける。葉が大きくなる。葉は出来るだけ幹から水分を吸収す

る。水分を吸収された幹は乾燥する。その乾したものを木呂

に引き割るのであるが、謂わば枝についた葉に乾燥の役目を

仰せつけるといった具合である。

 

 木呂伐りは斯うして雪の利用できる4月下旬まで続き、雲

の薄らぐに従って懐かしの村里に帰る。

 

 やがて雪が全く消える。鶯が鳴く、躑躅が燃える。蝉が鳴

く。木はいよいよ乾いて軽くなる。木呂流しはこの頃から始

まる。

 

 本流に近く積まれている木呂は直ぐに、どぶんどぶんと川

に投げ込まれて至極簡単であるが、小沢に積まれているいる

のはそんな簡単にいかぬから、「堤出し」という面白い方法

を用いる。

 先ず小沢の上流を堰きとめて堤をつくる。数旬の後はこの

堤に水が満々と湛へられる。そして其の下流に木呂を集めて

置く。

 

 その堤には巧みな仕掛けがあって、1本の竹を抜くと水は

奔馬の如く出して幾百本の木呂も木の葉の如くあしらわれ

て突き出されるという仕掛けである。而もこの奔流はその辺

一帯に強烈な風を起こし、川下の木呂は水がまだ作用しない

にころころと下流に向かって運動する。どこまでも面白い

方法ではないか。

 

 これについては悲惨な話もある。十数年前のこと、堤出し

に従事した一人夫が逃げ遅れたために、この強風にあおられ

て木呂もろ共に深い沢の中に巻き込まれて押しされ、あた

ら命を失ったということである。面白い中にも危険性のある

仕事である。

 

 こうして本流にされた木呂は、五里十里の流れを黒又堰

堤まで岩を噛む急流や底知れぬ淵などを彼方此方を彷徨し、

浮きつ沈みつ流れる様は、黒又川や平石川ならでは見られぬ

奇観である。

 黒又堰堤には木呂止めがあって、そこから再び陸揚げされ

るのである。そこで木呂流しの長い旅路が終わるのである。

 

 木呂は小出、長岡其の他の地方に売られ、薪となるのであ

るが、一棚(6尺立方)五円から八円の価格をもっている。

入広瀬村だけでも約三千棚の産出があり、木炭に次いでの重

要産物といわれている。

 

 只見線の開通後は運搬も便利になり、価格も安くなること

であろう。

 然し現在では余りに伐採しすぎて、五里、十里の山奥まで

行かねばならぬと同時に、村有林もだんだん尽きて国有林を

払下げねばならぬ状態にあるとは、ここに反省する必要もあ

る次第ではあるまいか。更に一歩を進めてこれを木呂とする

よりも、なにかもっと有利な加工製品として広く売り出す方

法を考えねばなるまいかと思う。

 

 

 如何だったでしょうか。これが戦前の山奥の村での暮し方

の一つでした。「木呂流し」今は昔の話ではありますが、日

本中で木材が燃料として使われていた時代には、どこの山村

でも似たような「木呂流し」をしていたのではないかと思い

ます。

 本文中の舞台である入広瀬村は、昭和の大合併の時代には

孤高を守っていましたが、2004年の平成の大合併で北

沼郡7町村の内6町村の合併により魚沼市となりました。

 本文はなるべくそのまま載せようと思いましたが、読みづ

らい所に()書きを入れたり、句読点を入れたり、接続詞を

加えたり、旧漢字は新漢字に、旧仮名は新仮名に、また読み

やすいように一区切りごとに段をあけました。

 

 昭和17年11月1日に小出駅~入広瀬村大白川駅が開通

した只見線は、大白川~只見間の会越国境山脈を通す難工事

を終えて、昭和46年に会津若松駅までの全線開通が成りま

した。 

 

 魚沼市在住の磯部定治氏の著書「只見線物語」の中に、蒸

気機関車時代の冬の写真がありました。

雪景色は今も変わることはありませんが、蒸気機関車が走る

光景はもう見ることはできません。

 

 

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この本から「三村郷土読本」  

 

 麗々しい文字が並び、厳めしささえ感じる表紙です。これは、昭和十三年に発行された社会科副読本の様なものです。はしがきによると、尋常科第五学年以上の小学生児童並びに青年学校生徒用に作られたものです。

 表紙の三村とは、新潟県北魚沼郡にかって存在した須原村、上条村、入広瀬村の三つの村のことです。写真の読本は、昭和六十一年に守門村商工会青年部の手によって、復刻されたものです。村名が色々出て来て煩わしいですが、守門村は昭和三十一年に須原村と上条村が合併して出来た村です。現在は三村とも、魚沼市に含まれます。

 

 

 表紙と中扉を開くと、写真のような地図が載っています。白抜きされている地域が、須原、上条、入広瀬の三村です。地図左の広瀬村と薮神村を加えてこの地域を呼ぶ場合は、広瀬郷と言いました。遥か昔の戦国時代には、南魚沼郡上田郷の坂戸山に城を構えた上田長尾氏の広瀬衆として一翼を担っていたようです。

 話がそれました。この読本は第一課「我らが郷土」から第二十二課「あいに遭難した人の話」まで、三村の成り立ち、山や川、行事、輩出した人物、神社仏閣、山仕事、伝説等々が、過不足無く記述されています。

漢字が多く、旧漢字旧仮名づかいなので、時に読みつかえることもありました。本当にこれが、小学五年から中学ニ年までの子供の副読本なのと思いました。記述が丁寧なので分かりにくくは無かったです。

 

 今回は、この中から第九課行事三題の内「鳥追い」を紹介します。

 

 地方には色々の風習があり、行事がある。行事は大てい古い歴史をもつもので、奥床しいものである。今もなほ私達の地方に行われている鳥追・彼岸の迎ひ火・菖蒲たたきなども、其の行事の一つである。

   

  一、鳥  追

 

 鳥追は農作物をまもり、豊作を祈るお祭りの行事で、今では一月おくれのニ月十四日の夜に行われる。

 高い雪の楼を立て、広い雪の小屋を作り、(かまくら)付近の少年少女が一団となって、睦まじく餅を焼いて食べたり、勇ましく声を揃えて鳥追歌を歌ふ。鳥追歌は次の様な面白いものである。

 

  其 一

 

鳥追だ鳥追だ

どっからどう追って来た

信濃の国から追って来た

何を持って追って来た

柴をぬいて追って来た

四番鳥も五番鳥も

立ち上がりゃほ~いほい

いっちのにっくい鳥は

どうとさんぎと小雀

頭割って塩つけて

おんだわらにつっぺしこんで

佐渡ガ島へ追ってった

ほ~いほ~い

 

  其 ニ

 

山方の子供は

意地の悪い子供で

山うるしを切り込んで

あっちち ぷっちち

太郎来てもんでくれ

あんまりもんだれば

玉が一つ飛び出した

赤い金が十二ひろ

白い金が十二ひろ

太郎子に着せたれば

次郎子がうらみ

次郎子に着せたれば

太郎子がうらみ

誰にも着せないで

お寺のちっこの子に着せて

京の町へいったれば

京の町の子供が

エヘラヘンと笑った

もう一つ笑へ

目にさしばりかってくりょ

口にさしばりかってくりょ

鼻にさしばりかってくりょ

かってもかっても

ほ~いほい

 

 

 確かに子供の頃歌った覚えがあります。それも小学生のころまでで、中学生になると参加出来なかったように覚えています。

 昼間の内に雪を踏みながら高く積んで、中をくり抜いて洞を造り、一番奥に神棚を作って神様をお祀りして、夜になるのを待つのです。この洞を大勢で造るのも楽しいものでした。ガキ大将が指図して手際よく作業をして行くのですが、丈夫で立派なものが出来たものです。中には厚く藁を敷いて、その上に蓆を敷きます。

 夜になると、この日ばかりは大人は近づきません。子供たちだけの祭りだからです。それがまたなんだか偉くなったような気がして、面白かったですね。甘酒と火鉢で焼いた餅、それだけでも自分達で用意するのですから、大御馳走でした。

 今も同じように続いているのかは分かりません。子供が少なくなった上に、今は子供だけではやらせてくれそうも、やれそうも無いですから。

  

 

 

 

 

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この本を読んで「学校物語」2  

 前のエントリで、親を亡くしたり親に逸れたりした長岡藩子弟が、小千谷で浮浪児として 生きていた処まで書きました。

 小千谷の高札場に小千谷民政局は「賊徒の家族は即刻退散させよ。もしこの上隠匿候義顕れ候節は、当人は勿論村々役人迄、きっと曲事申し付くるべく候事」という布告を出していました。

 長岡藩に連なる者は、婦女子、子供と言えども匿えば罪になるため、可哀相に思っても何も出来ない状況で、なおさら子供たちが困窮していたのです。そうは言っても、例外は沢山あった事だと思いますが。

 

 「この歳五月戦の始まるや、白刃を提げて弾雨の下に立ち、固より親子相顧みるの暇なく、いわんや兄弟妻子をや、各々唯死力を尽くして戦うあるのみ。故に弾丸黒子の小城を似て、西南雄藩の大兵に抗し、一日敵手の委したる城塞は再び之を回復し、その破るるに及んでは、遠く去って会津に合し、会津また破るるや去って米沢に入る。米沢既に降る、すなわち去って仙台に至れば、仙台もまた既に降伏せり。敗残の兵を以て百里に難す。或いは老幼病弱を扶助し、肌寒を冒し、困苦を忍ぶの状、今日到底想像の及ばざるものあり。殊に婦女子の身を以て、難を未知の山中に避け、幾度か死生の間に出入りして、僅かにその夫の残骸を求め得たるが如き惨事は一にして止まらず。之を会津藩が君臣・親子一城内に籠り、流転曝露の苦もなく、唯座ながらにして暫時囲を受けたるに比すれば、我が藩士が君臣・父子・夫婦・兄弟皆相失し、半歳の間山野に曝露し、百里に寓したるの苦は、固より同日の論にあらず。今日之を想うも、実に慄然たらしむるものあり。」(本富栗林「戊辰戦争談」)

 

 本書「学校物語」の中でも引用されていましたが、短い文章の中に戦に敗れた長岡藩の惨状が凝縮しています。

 

  

 最初のエントリの陣屋のところでも登場した山本徳右衛門です。(明治三年、比呂伎と改名)

 

 戊辰戦争当時の徳右衛門は、四十一歳であったそうです。小千谷の町の世話役として、町民に信頼が厚い人でした。何か事ある度に相談を受け、新政府軍が駐屯してからは町側の代弁者として欠かせない存在でした。教養と人柄からでしょうか、軍の幹部や本営の御用掛け役人に一目置かれる存在でもあったようです。

 代々山本家は縮商を営む富裕な商家でしたが、徳右衛門の代で縮商をやめています。多くの家作や土地を持っていて、裕福なのは変らなかったようです。ただ、妻に先立たれ一人息子を亡くして、家庭的には不幸な人でした。その悲しみから立ち直り、前述した通りの毎日を送っていました。

 

 この山本徳右衛門が、浮浪児と化した長岡藩子弟に手を差し伸ばしたのです。子供とは言え新政府の罪人ですから最初はこっそりと、この子供たちに食を与えるところから始めました。握り飯を運んでやるところから始めたそうですが、そうなると、食を心配しなくて済むようになった子供たちも厳しい侍の躾を思い出してか、町の人への迷惑がピタリと止んだそうです。

 

 

 徳右衛門の瞼には、寺の床下や無人の祠にうずくまっていた野良犬のような子供たちの姿が、鮮烈に焼きついていたそうです。

 (戦争の怨念を、無抵抗の女子供の類にまで及ぼして報復するというのでは、源平時代の戦と何の変わりがあろう。とても天朝様の政とは思えない。直訴すればどんな罰をうけるか分からないが、悲惨な境遇にある子供たちを打ち捨てておくのは、人倫の道にもとる)と徳右衛門は腹をくくったのです。

 (彼らには、食い物と寝場所をさえ与えれば事足りるというものではない。「規律」と「教育」が何より必要なのだ。この二要件を満たしてこそ、あたら資質ある人材が無頼の徒と化すことを妨げるのだ。)と徳右衛門の心に義憤が満ちて来たのです。その晩のうちに長文の建白書を書き上げ、追伸としてこう書いています。

「追って申し上げますが、右の小学校創営をはじめ、衣食薪油の費用に関しては、設立の御許可ありますれば、追々申し上げ奉ります。及ばずながらその必要経費の中へ、金千両を五カ年にわたって報国の寸志として上納致したく存じ賜わりますれば、幾重にも前件の次第、よろしく御理解程願い上げ奉ります。巳上。慶応四辰年八月」徳右衛門は建白書で、子供たちのための学校と宿舎を作らせてくれと嘆願して、追伸で費用は出させてくれと言っているのです。

 

 

 徳右衛門の幾重にもわたる嘆願と尽力とで、十月になって学校創営の許しが出ました。

 

 「方今至急教育両全の見込を以て、懇々切々願意の趣、之に加えて金千両也五カ年に献納致したき段、かれこれ神妙のいたりに付き聞き届け候、これより速やかに施行相成り候事 明治元年十月朔日 柏崎県知事」

 

 小千谷民政局の雪野判事に開校許可証を手渡され、徳右衛門の目は涙でいっぱいになったと言います。

 雪野判事はさらに「まだある。これはわしからだ」と言って、数枚の書付を渡してくれました。それが、上の三枚の書付の写真です。

 

一枚目 山田愛之助 今泉友三郎 木村一蔵 右今度元長岡

    降人の幼弱教育場取り建に付、御雇をもって教示方

    相勤め候事

 

二枚目 小千谷村 久保田弥三右衛門 山本徳右衛門 右者

    この度元長岡降人の幼弱教育場取り建に付、世話懸

    り申付候事

 

三枚目 郷元 東徳右衛門 同立添 半右衛門 同 清之助

    右はこの度長岡降人の幼弱教育場取り建に付、久保

    田弥三右衛門 山本徳右衛門へ世話懸り申付候条、

    その役前に於いても万端申談世話致すべく候

 

 まさに至れり尽くせりの任命書であったと、この本の著者

も書いています。

          

 

 小千谷の古刹五智院です。この寺で振徳館小千谷校が産声を上げたのです。

 振徳館の「振徳」は、山本徳右衛門が県に提出したニ通目の建白書文中にある「寛に在るという、これ振徳する所以なり」から採用したものであろう。と「学校物語」の著者は書いています。

 その校名通り、五倫の教えに基づいて、人格教育にはことに力点がおかれたということです。

 

 小千谷小学校の公認を小千谷民政局の生徒募集の布告日とすれば、「明治二年三月」その創立を柏崎県の開校許可日そすれば「明治元年十月一日」に遡ることになります。いずれにしても、わが国初の公立小学校であることに間違いない。とこの本の著者は嘆息しています。

 

 越後地方は戊辰戦争後の占領地であっただけに、行政組織の改変がめまぐるしく、さらに、県財政の逼迫もあって、小学校も山本徳右衛門預かりとなった一時期もありました。深刻な経営危機にも直面したようですが、それも山本徳右衛門の不屈の努力で耐え通しました。

そして、明治政府の学制領布で小千谷小学校となり、五智院からの歴史を今に受け継いでいます。

   

 

 山田愛之助のことは12月17日の「栃尾秋葉神社にて」の中でふれていますが、長岡藩藩校「崇徳館」の教授時代に、河合継之助も学んでいます。新政府軍との戦に反対して刀を捨て、新政府側に降った人物です。

 山本愛之助はこの学校の初日、長岡藩子弟に対して訓示しています。

 「長岡藩は戦争に敗れ、まだその処分も決定していない。御家中の多くは今、奥羽の地に在り、果していつの日に故郷に帰れるかも定かではないのだ。君たちにしても、これから両親に巡り合える者もあれば、中には、一生を独力で生き抜かねばならない者もあるだろう。各人さまざまな運命が待ちうけているが、けっしてくじけず、道を誤たず、天下のために役立つ人物に育ってもらいたい。将来どんな苦難に出合っても、この小千谷での体験を思い起こして、雄々しく立ち向かっていくのだ。それこそが諸君を救ってくれた山本徳右衛門どのへの、最大の恩返しなのである。」

  

 

 これは、五智院に学校を創学した時の生徒の名簿です。長岡藩子弟の名前が並んでいます。

 

 長岡に「国漢学校」が開設されたのは、明治二年五月一日のことです。長岡の戦後復興に当たっていた大参事小林虎三郎が、四郎丸村の昌福寺本堂を借りて、藩士の子弟四十人を集めいち早く教育を開始したものです。

 小林虎三郎と言えば米百俵の逸話が有名ですが、この時より一年後の出来事です。そして、実際に明治三年六月十五日、長岡国漢学校は坂之上町に新築されています。

 長岡にも学校が出来たということで、「振徳館」で学んでいた長岡藩子弟も、順次退校して親族に引き取られていきました。「振徳館」のその後のことは、上の方でふれています。

 

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この本を読んで「学校物語」  

 

 1995年に恒文社から刊行された「立石 優 著 学校物語」です。著者は昭和10年中国大連に生まれ、昭和32年明治大学文学部文学科を卒業された方です。

 著者と、この本の中で語られている「小千谷」とは縁があった訳では無かったようです。著書のあとがきの中で、福屋と言うスーパーへ商談に行ったのが最初で、暖かい季節だったので印象に残らなかった。と書いています。二度目に訪れたのが真冬で、人の背を越える雪の壁をみて度肝を抜かれた。とも書いています。そのせいかどうか、福屋と取引が成立したにもかかわらず、私の足は遠のいていた。とも書かれていますので、通りすがりの人と同様だった訳です。

 そんな著者が、なにゆえ大した縁も無い土地の学校に興味をもたれたかと言うと、当時の恒文社出版局次長の大月儀一氏との縁からだったようです。出版の打ち合わせで氏と会っていた時に、話のはずみで、「小千谷には日本で一番古い小学校がありますよ」ともらされたことがあった。とあとがきの中で書かれています。(大月氏は小千谷の出身です)

 

 では、その学校とは如何なる物であったのでしょう。

 その前に、小千谷(おぢや)と言う所は如何なる所であったのでしょう。本書でも引用されていますが、江戸時代の文人鈴木牧之(越後魚沼郡塩沢の人)は自著北越雪譜の中で魚沼郡をこう紹介しています。

 「越後の地勢は、西北は大海に対して陽気なり、東南は高山連なりて陰気なり。ゆえに西北の郡村は雪浅く、東南の諸邑は雪ふかし。これ陰陽の前後したるに似たリ。我が住む魚沼郡は東南の陰地にして、巻機山、苗場山、八海山、金城山、駒ケ嶽、兎ヶ岳、浅草山等の高山その余他国に聞えざる山波涛の如く東南に連なり、大小の河々も縦横をなし、陰気充満して雪深き山間の村落なれば雪の深さをしるべし。」

 当時の小千谷村(現小千谷市)は、魚沼郡に属していました。

 信濃川沿いに階段状にせり上がりながら集落を形成する小千谷は、江戸時代に小千谷縮の集散地として栄え「北越の一市会、商家鱗次して百物備わらざることなし」と山東京山(京伝の弟)を嘆じさせるほどの賑わいをみせていました。

 

 日本で一番古い小学校とは、小千谷小学校のことです。殷賑の土地柄だったとは言え、どうして雪深い魚沼の一邑にそんな物が出来たのでしょうか。この本は「学校物語」の著者が、そのことを不思議に思い解いていったものとも言えます。著者はこれを書き上げる以前、小千谷と境を接する長岡藩家老河合継之助の片腕とも言うべき村松忠治右衛門を題材にした「河合継之助を支えた男」を上梓しています。その事も、この本を書く動機となっているようです。

 

 享保九年(1724)小千谷は高田藩領から天領に移行され、会津藩預かり所となりましたが、その事によって幕末に戊辰戦争の波涛に飲み込まれて行きます。

 慶応四年(1868)正月十二日、会津代官は久保田弥三右衛門、西脇吉郎右衛門、野口保吉郎、山本徳右衛門ら小千谷の有力者を陣屋に呼び出し、酒肴でもてなしました。そして、京の情勢が逼迫していることを理由にして、軍用金の調達を命じました。町民側は、西脇家(詩人の西脇順三郎生家)の八百両を筆頭に、総計三千四百両の賦課を受け入れることになりました。

 

 鳥羽伏見で幕府軍が大敗した飛報が小千谷に入ったのが、一月十六日のことでありました。四月に入ると情勢は急を告げ、江戸城の無血開城がありました。旧幕府艦隊は江戸湾を離れて松島湾に本拠を移し、幕府軍の残党は関東各地を転戦し、彰義隊は上野の山に立て籠もったが惨敗して四散しました。

 徳川慶喜は徹底した恭順に努め、肩透かしを食った格好の新政府は、武力革命の矛先を会津藩に向けました。会津藩にとっては、戦争以外の選択肢は無かったのです。

 

 四月二十九日に、古屋作佐衛門率いる旧幕府歩兵隊四百ニ十人が小千谷に入って来ました。民家に止宿した歩兵隊は、火消人足や博徒などで編成された洋式部隊で、戦闘には強かったらしいですが兵の質が悪くて嫌われたそうです。小千谷で乱暴狼藉を働いた記録は無いようですが、会津藩兵が駐屯していたからだと思われます。

 

 新政府は、北越征討軍を山道口と海道口の二手に分けて越後攻略を目指しましたが、最大の目標は長岡藩でした。

 長岡藩牧野候七万四千石は、三河以来の譜代大名で藩主は歴代老中など幕閣の要職に就いてきた家です。激動のこの時期に長岡藩の舵取りをしていたのが、抜擢家老の河合継之助でした。継之助はここに至るまでに藩政改革に成功して、精強な洋式軍隊を作り上げていました。そうして、奥羽越列藩同盟の執拗な勧誘に応ぜず、新政府に恭順の意を示すでもなく中立を守っていました。

 

 閏四月十六日に小千谷から七Kmほどの雪峠で、政府軍と会津藩兵、旧幕軍との激戦があり、夕刻頃には兵力の差で会津藩兵らは破れて小千谷に退却しました。しかし、寡兵では小千谷は守れないと舟で信濃川を片貝方面に下って行きました。

 

 慶応四年五月三日、長岡藩家老河合継之助と山道鎮撫軍軍監岩村精一郎との会談が、小千谷の慈眼寺で行われました。凄惨な北越戦争の幕が切って落とされた会談でした。

 岩村精一郎は当時二四歳、後年語るところによると、河合継之助がどういう人物か知らなかったと言っています。愚昧な門閣家老だと思っていたとも言っています。当時、知っていれば会談の仕様もあったのだがとも語っているそうです。不思議な物言いをする人物です。これから戦おうとする敵将の情報も知らない指揮官が存在して良いものだろうか。

 この人物は後年、司法卿だった江藤新平と不平士族が起こした佐賀の乱でも、佐賀県権令として渦中にありながら同様の失敗をしています。

 河合継之助の名は新政府の要人にもよく知られており、現に山形狂介(有朋)は、河合が小千谷へ来ると言う報告に接すると、「留めておいて帰すな」と指令を飛ばしています。河合一人を抜いておけば長岡藩はどうにでもなると踏んでいたのでしょう。その指令が届かぬうちに、岩村は河合を追い返しています。

 

 長々と当時の情勢を書いて来ましたが、物事には原因が有って結果が生じます。この本「学校物語」の、日本で最初に出来た小学校も凄惨な北越戦争が無かったら出来なかったかも知れません。

 明治維新は、侍が侍の治世を否定して起した戦争でした。侍が起こした革命とも言えます。西郷隆盛は維新後に、血の流し方が足りなかった。これでは徹底した革命にはならないと嘆いたそうですが、流す方にしたらたまった物ではありません。それが、戦争の意義や意識がしっかりとした大人ならともかく、戦争の後には傷つけられた山河と親を無くした子供や子供を無くした親が残ります。

 北越戦争での長岡藩の子弟もそうでした。侍の子と言っても幼い子供が親を無くしてしまったら、荒野をさすらうしかありません。生きるためなら盗みもするでしょう。大勢の長岡藩士の子弟たちが小千谷に流れ込んで来て、店先の物を掠め取ったりして寺の床下などで寝起きをしていたと言います。

 

 長くなってしまいました。後日続きを書きます。           

 

 

 

 

 

 

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