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カテゴリー「文学民話伝承」の記事一覧

三つの忘れ物~2「弘法大師の霊塩水」  

 長鳥駅に停車した電車を撮影して、ふたつめの忘れ物、弘法大師の霊塩水を探しました。踏切を渡りセナカ峠への道を少し登って、振り返ると線路の向こうの看板が目に入りました。
ふたつめの忘れ物
 弘法大師霊塩水の祠の全景です。
ふたつめの忘れ物2
 現在も、こんこんと塩水が湧き出ていると言う井戸です。
ふたつめの忘れ物3
ふたつめの忘れ物4

「弘法大師堂霊塩水祭礼」
 
『動画作者のコメント』
 昔、弘法大師が諸国を布教して柏崎の岩之入(いわのいり)に訪れた折、一軒の貧しい家­に一晩泊めてもらいました。夕飯として馳走になった塩気のない小豆粥。それを哀れみ、­一泊のお礼に錫杖で大地から塩水を噴出させました。
 この祭りはその貴重な塩を頂いた恵­みに感謝する伝統行事です。前夜祭では弘法大師堂の周りに蝋燭を雪洞に灯し雪夜を彩り­ます。
 祭り当日はご詠歌行列、寺院による参拝者への厄払い読経などがあり、会場では甘­酒のサービス、御利益豆腐・おまんじゅうなどの販売があります。
 私の好きな「永井龍雲」さんの「人の四季」に乗せてお届けします。


 

category: 文学民話伝承

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藤の実  

 戦前の日本の物理学者に、寺田 寅彦と言う方がおられました。研究上の業績としては、「潮汐の副振動の観測」などがあります。またX線の結晶透過の研究(結晶解析分野としては、非常に初期の研究の一つ)で、1917年に帝国学士院恩賜賞を受賞しています。またすぐれた随筆家で俳人でもあり、吉村冬彦(大正11年から使用)、寅日子、牛頓(ニュートン)、藪柑子(やぶこうじ)などの筆名で知られる文筆家でもありました。

『藤の実』昭和七年十二月十三日の夕方帰宅して、居間の机の前へすわると同時に、ぴしりという音がして何か座右の障子にぶつかったものがある。子供がいたずらに小石でも投げたかと思ったが、そうではなくて、それは庭の藤棚ふじだなの藤豆ふじまめがはねてその実の一つが飛んで来たのであった。
(寺田寅彦の随筆「藤の実」の冒頭です。クリックすると全文を読むことが出来ます)


『庭の鉢植えの藤にも実が生りました』実が弾ける頃には、初雪の便りも・・・・・・。
藤の実

 寺田氏は他にも金平糖の角の研究やヒビ割れの研究など、統計力学的な「形の物理学」分野での先駆的な研究も行っていて、これら身辺の物理現象の研究は「寺田物理学」の名を得ています。
「天災は忘れた頃にやってくる」は、寺田氏の言葉と言われていますが著書の中には、その文言はありません。発言録に残っているそうです。


 Midori plays Ravel's Tzigane(天才 五嶋みどり)
 

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大入道と金銀伝説  

 むかしむかしの大むかし、人間がまだ誕生しない大昔のこと。出羽国の 羽黒山には、大太法師(だいだらぼっち)と云う大入道が、羽黒山に腰掛けて鬼怒川で足を洗ったと言い伝えが残っている。(誰が見ていたの(*´з`))

『大太法師が座った跡?』この山は、越後魚沼の中ノ岳。大太法師の言い伝えは、寡聞にして聞かない。ただ大昔、山中で生姜の形をした自然金を産出したと云う話は、聞いている。その場所は、生姜畑の名で今でも残っている。
だいだら法師の椅子

『銀山と云われた魚沼駒ヶ岳』現在は、この山から流れ出る北ノ股川から只見川上流を銀山平(ぎんざんだいら)と呼ぶ。
 江戸時代の寛永年間から中断期間をはさんで、安政年間まで銀や鉛などの採掘が行われた。最盛期には、小出から銀山に至る峠道に8ヶ所の宿場、3ヶ所の番所が設けられた。銀山の中心地の須原口に本陣を置き、採鉱現場近くには十二山神社が設けられた。
 銀山の開発が諸国に知られると職人、商人、鉱夫、遊女などが集って来て、山間の秘境に一大鉱山街が出現するに至った。
 現在は、電源開発で出来た奥只見ダムの水底に沈んで、往時の面影を偲ぶべくも無いが。
駒ヶ岳と落葉松

『銀山に見下ろされて黄金色に染まる落葉松』
雪壁と落葉松林
杉と落葉松の林
落葉松と青空
落葉間近な落葉松
落葉松の梢

『送電線の鉄塔が建つ山頂』現代文明を成り立たせている電気のせいか、おかげか、妖怪の類は出て来難くなったようである。
冬枯れた山の鉄塔

『小出駅近くの只見線の鉄橋から八海山』三山の盟主は外せない。
 かっては、白装束の修験者が、この岩塊の山から他の二峰へ三山駆けの荒行をしていたと聞く。
小出駅近くの只見線の鉄橋から八海山

 「今日は、この曲を選びました」
 

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文学碑の建つ丘  

 魚沼市を流れる魚野川の左岸の丘の中腹に、旧小出町佐梨出身の山岡壮八の文学碑が建っています。以前にも一度、「IZA」で紹介したことがありましたが、今回は、彼の生まれた町を見下ろす丘の風景を紹介してみましょう。
(IZAで掲載したものは、引っ越し後、手直ししていないので読みにくいと思います。)

『丘を上って行くと、こんな案内板があります。』
文学碑

『案内板が指し示した方向は、小公園になっています。』
山岡壮八文学碑

『菊ひたしわれは百姓の子なりけり』の俳句が書かれた文学碑です。
文学碑の建つ丘7

『山岡壮八氏が生まれ育った町の風景です。』
街を見下ろす

『文学碑がある小公園の周りで咲いていた花々』
花壇
芙蓉
文学碑の建つ丘2
文学碑の建つ丘4

 山岡壮八氏の本姓は山内氏で名は 庄蔵と言いました。再婚されて、奥さんの姓の藤野と姓を変えています。
 「菊ひたし」の文学碑を、小出町時代の観光協会が下の写真のように解説しています。

解説

 余談ですが山岡賢次と言う元国会議員は、藤野庄三(山岡壮八)の婿養子です。彼のことについては、下のサイトが詳しいです。
http://www35.atwiki.jp/kolia/pages/553.html


 

category: 文学民話伝承

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青大将と不動様の滝  

 

 5月21日に、旧栃尾市(現長岡市)の山中の名所や忘れら

 れた名所を訪ね歩いてきました。

 ここも、子供の頃聞いたことのある記憶を頼りにやって来

 ました。

 

 

 車を止めて、歩き始めてすぐのことでした。

 うっかり青大将を踏ん付けてしまって、思わず「こんな所

 で何やってんだ」と怒鳴ってしまいました。
 踏ん付けられたり怒鳴られたりで、青大将は固まってしま

 いました。帰り道には居ませんでしたが、とんだ災難だっ

 たと思います。

 

 

 青大将にドキッとさせられてすぐに、不動様の滝が見えて

 来ました。小さな滝ですが若葉の森に囲まれていて、目に

 優しい光景でした。

 

 

 お不動さまは、滝の中程より少し下、瀑布の裏側に祀られ

 ていました。流れ落ちる水を透して、微かに見えると思い

 ます。

 このお不動さまは眼病に霊験あらたかで、昭和30年代始

 めの頃では、私の育った魚沼の山村の茶飲み話の話題に

 なっていたように覚えています。

 

 

 宝暦(1751年10月27日~1764年6月1日)

 この時代は、将軍徳川家重・家治の治世下でした。家重さ

 んは、有名な暴れん坊将軍徳川吉宗の子です。

  

 

 滝に向かう道中にも、お不動様の滝の側にもシャガの花

 咲いていました。

 シャガは確か中国原産の植物で、種では無く地下茎で増え

 ていきます。

 いつの時代か、滝のお不動様を信心する人々が植えたもの

 でしょうか。陰の林床に、無数の花がひっそりと咲い

 いたのが印象的でした。

 

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雪おんな  

 

 

 吹雪で里に帰れなくなった老若2人の猟師が、小屋の中で寒さをしのいでその夜の宿にします。顔に吹き付ける雪に目を覚ますと、白く美しい女が隣に寝ていた老いた猟師に白い息を吐きかけ凍らせて殺してしまいます。

 女は若い猟師にも息を吐きかけようとしましたが、若い猟師の顔を見て笑みを浮かべて息を吐きかけるのをやめました。「今夜のことは誰にも言うな。言ったら殺す。」そう言い残して、女は吹雪の中へ出て行きました。

 

  

 

 数年後、若い猟師はお雪と云う名の美しい娘と結婚して、10人の子供が産まれました。不思議なことにお雪は、何年経っても若く美しいままでした。

 ある夜のことでした。子供を寝かしつけたお雪に、猟師は若い頃に体験した不思議な夜のことを話します。あの夜の美しい女と恐ろしい出来事を。お雪にそっくりな美しい女だったが、あれは雪女であっただろうかと。

 漁師が話し終えるとお雪は突然立ち上がり、その時の女は私だと言いました。あの時のことを人に話したら殺すと言ったが、寝ている子供たちを見ていると何で殺せようか。子供たちをくれぐれも頼んだよと言って、白い霧となって屋根の煙出しから消えて行きました。

 

 あらすじは、こんな内容だったと思います。この雪女の伝説は、小泉八雲が東京府西多摩郡調布村(青梅市南部の多摩川沿い)出身の親子(お花と宗八)に聞いた話が元になっているそうです。

 江戸時代の気候は今より寒冷だったと言いますが、現在の東京郊外でも雪女の伝説が残っていることに驚きます。

 

 

 

 この雪女の話は雪深い魚沼各地にも残っています。似たような話なので紹介はしませんが、私の体験談を紹介して見ようと思います。

 

 雪が激しく降る日のことでした。小千谷市での用事を済ませ、十日町市に向かって車を走らせていました。人家が無くなると道路の雪が深くなり、ぶちまける様に降って来る雪で暗くて心細い思いをしながら運転していました。

 

 吹雪いて来る雪がフロントガラスにへばり付き、ワイパーで拭い切れません。雪壁の上からは粉雪が滝のように吹き下ろされてきます。ヘッドライトに写る光景は真っ白なホワイトアウトです。

 

 吹雪が弱まるのを待つため車を止めて、どれくらいの時間が経ったのでしょう。ふと外を見ると、黒い雲の切れ間から月が出てきました。

 

 フロントガラスに凍りついた雪を払っていると、「雪がいっぺえで大変だのんし」と女の人から声を掛けられました。こんな所で誰だろうと振り向いたのですが誰も居ません。雪に埋もれた道に、足跡もありません。なんだろうと思いながら車をスタートさせました。

 十日町市での会合に何とか間に合い、知り合いに先ほどの話をすると、「おめえ良かったな顔を見なくて」と言うではありませんか。何だろうと更に話を聞くと、私が車を止めた所は雪峠と言う所で、昔から吹雪の夜に雪女が出たのです。

 

 声を掛けられたとき相手の顔を見てしまうと、雪女にとり殺されるのだと言いました。昔は、旅人が何人も命を落とした所だと云うことでした。

 

 30年も前の出来事ですが、吹雪の夜になるとあの刻の女の声が蘇ります。「雪がいっぺえで大変だのんし」と。

 

 

 

 

 

あの夜の女の声は峠の麓の声が風に乗って上がって来たものだと思いますが、当時も今も思い出すと背筋の辺りがゾクリとします。

 

 

 

 

             

 ほんの少しだけ雪女の事に触れようと思ったのですが、思いがけづ長話になってしまいました。それでは本年のブログはここまでにします。皆様良いお年を。

 

     いちごさけも~~うした。

 

 

 

                                                                                              

                                               

 

                                                                                                                                                                                                                                                         

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 小泉八雲は「怪談」の中で、雪女の伝説を紹介しています。

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酒天童子の伝説その2  

 

 

 国上寺から少し下った所にある五合庵です。良寛所縁の庵として知られていますが、元は国上寺本堂を再建した客僧萬元上人がここに住し、日々五合の米を給されていたのが庵の名の由来だそうです。

 良寛が修行の旅から帰ってここに住み始めた寛政5年(1793) には築百年ほども経っていた庵だったそうですから、そうとう草むしていたことでしょう。良寛はここに40才くらいから20年ほど住んでいたそうです。

 五合庵は良寛の死後75年目の明治39年(1906)に大雪のため倒壊して、大正3年に再建されています。

 

 

 国上山(313m)山頂です。晴れていれば、日本海に浮かぶ佐渡島が目の前に見えます。稜線の先には弥彦山そして角田山と連なり、春先には雪割り草の山として知られています。カタクリやその他の花も咲き乱れる花の名山と言っても良いかと思います。

 

  

 稚児道を下れば酒天童子神社、近くには酒天童子の生家跡と云われる所もあります。神社は近年建てられたものだそうで、五重塔とその脇に酒天童子を祀った祠があります。ご利益も書いてあり、縁結びに験があるのだそうです。

 

 

 国上寺から道の駅くがみまで練り歩く酒呑童子行列です。10月中旬の日曜日に開催されているようです。

 

 

 

 さて、酒天童子のことです。付文をして来る娘たちには振り向きもしないで、仏道修行に打ち込んでいた若き日の酒天童子でしたが或る日のこと、想いが叶わなかった娘たちが恋の病で皆死んでしまったと云うことです。

 どんな思いだったのか、酒天童子は行李に仕舞って置いた娘たちからの付文を全部燃やしてしまいました。その煙に想いが叶わなかった娘たちの怨念がこもっていたのでしょう。煙にまかれているうちに、眉目秀麗だった酒天童子がみるみるうちに鬼の形相に変っていったと云います。

 それからの酒天童子の行状は鬼の酒天童子そのもので、越後の各地を荒らしまわったと言うことです。そんな中で、古志郡軽井沢生まれの茨木童子と知り合い相撲を取り、茨木童子を配下にしたと云うことです。茨木童子も相当な美男だったようですが、悪行を重ねるうちに鬼となったと伝わっています。

その後この鬼たちは信州戸隠山に住んだり、比叡山に住んだりしたということですが、配下を大勢従えて大江山に根城を構え京の都を荒らしまわりました。源頼光に退治された下りは先回ふれています。

 

  

 

 茨木童子は、ふる里軽井沢の小さな祠に祀られています。

 

     

 大江山で逃げた茨木童子は京の都を荒らし続けましたが、源頼光の四天王の一人渡辺綱に腕を切り落とされます。老婆に化けた茨木童子が腕を取り戻して、空に逃げて行くのが上の絵です。

 その後どうなったのでしょう。酒天童子の首塚が丹波と山城の境、老坂の山中に今もあると聞いたことがあります。

 茨木童子は空に逃げたまま、その後の話は知りません。

 

 昔々まだテレビが無かった時代に、母親から聞いた昔話やおとぎばなしを思い出しながら書てみました。冗長な話に、ここまでお付き合いいただきありがとうございました。

 

 越後魚沼の山村ではこういう話の最後に決まってこう言います。

 そいじゃあこの辺りで、えちごさけもう~~した。

                     

                    (^◇^)

 

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酒天童子の伝説  

 鎌倉時代の末から江戸時代にかけて成立した「お伽草子」は、それまでの平安貴族の主に恋愛を題材にした長編物語と違い説話や昔話、さらには擬人化した動物などをも題材にした短編絵入り物語集です。

 丹波の国の大江山に住んでいたと云う「酒天童子」は、お伽草子のなかで京の都を荒らしまわった鬼の物語として語られています。源頼光と渡辺綱、坂田金時、卜部季武、碓井貞光ら四天王に退治されています。

 

 

 

 物語の中で酒天童子は、本国は越後と言っています。他にも摂津や伊吹山などの説もあるようですが、越後の国上山(くがみやま)周辺には酒天童子にまつわる伝承が残っています。また旧古志郡軽井沢村(現長岡市軽井沢)が、酒天童子一味の副頭目、茨木童子の出身地だとされています。

 

 

 

 元明天皇の御代和銅2年(709)に、越後一宮弥彦大神の託宣により建立されたと伝えられる国上寺(こくじょうじ)です。越後古の古刹で、弥彦神社の本地とされ代々別当寺として古記に記されているそうです。

 格式も高く、孝謙天皇の御代に正一位を賜わり、北海鎮護の最初の仏法霊場となっています。

 

 酒天童子は平安時代の初期に、越後国西蒲原郡砂子塚(燕市砂子塚)で生まれ、少年時代は国上寺の稚児だったそうです。彼が寺に通った道は稚児道と云われ、国上山山麓に今も残っています。

 

 

 

 今に残る稚児道です。稚児の仕事は、国上寺から弥彦神社へ書簡を運ぶことだったそうです。12.3歳だった彼はこの世の者とも思えぬ美少年で、沿道の村々の娘たちから沢山の付文をされたそうです。彼は、仏法に使える身であるからと、付文は行李の中にそのまま仕舞い娘たちを振り向くこともなかったそうです。

 

             続く

 

 

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たんころりんは泣いている  

 

 今日も雪が降ります。野も山も、家の周りも雪が積もりま

 す。まるで空が破けて、白い綿毛がフワフワと飛び交って

 いるようです。

 綿毛は暖かく身体を包んでくれますが、雪は包む物を皆凍

 らせて終います。

 

 

 冷たい北風が吹くのを止めると、雪は隙間が無いほど降っ

 てきます。野も山も人里さえ、埋めないでおくものかと言

 う意志を持っているかのようです。

 

 「雪がいっぺい降って嫌だのう」「ほんに、今頃からこん

 なじゃあこの冬内が思いやられるて」魚沼各地で、こんな

 会話が聞えて来ますが、喋っている当人たちは案外明るい

 顔をしています。

 

 「たんころりん」のことでした。たんころりんは柿の妖怪

 です。魚沼と言うより、東北の仙台を中心にした地方で語

 られている民話の中に登場しています。

 水木しげる氏の妖怪漫画で、一般の人に知られるようにな

 りました。

 

 たんころりんは大入道の姿をしています。柿を採らないで

 そのままにしておくと出てくる妖怪です。

 

 柿は栄養価が高い優れた果物です。昔は「柿が実ると医者

 が青くなる」と云われたそうです。そんな柿を粗末にすれ

 ば、大入道のたんころりんが出ても仕方ないですね。

 

 雪塗れになって凍みた柿もシャーベットのようで美味し

 のですが、最近は野鳥が啄ばんでいます。

 たんころりんは怖い妖怪ではありません。みんなに食べて

 ほしくて出てくる妖怪です。

 

 

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蜘蛛の糸  

 

 「蜘蛛の糸仏の慈悲を編み込んで」

 

 極楽の蓮池から、地獄へ蜘蛛の糸を垂らした釈迦はどんな

 思いだったのであろう。慈悲心、それとも気紛れ。(^^ゞ

 

 

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川の流れのように  

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」「何をくよくよ川端やなぎ水の流れを見て暮らす。」「ああ 川の流れのようにゆるやかにいくつも時代は過ぎて。

日本の中世と近代それに現代の文を抜き書きしてみました。「鴨長明の方丈記」「高杉晋作の戯れ歌」「美空ひばりの川の流れのように」です。方丈記以来日本人は800年もの間、川の流れに人生を重ね見て来たのでしょうか。


  

 その川の流れの中に、何かいました。水鳥ですが鴨かな。

 

 

 遠すぎてはっきりしませんが、鴨の様ですね。

 

 

 川風で波立っているし、寒いだろうに苦にしませんね。

 

 

 向こう岸に仲間がいました。

 

 

 冬の鴨は美味しそう。コホン!岸辺の雪が厚くなった。

 

 

 餌を漁るのに夢中で、余念が無いらしい。

 

   

左岸の川原は一面の雪です。細い流れがかろうじて埋もれないで、中洲と左岸を区切っています。北に向かって流れていた魚野川は、ここでほぼ九十度曲がって西に向かいます。

川下に下倉山と只見線の鉄橋が見えます。左岸には藤権現山と小出駅が見えます。奥の方に微かに写る山は、標高を落とした越の山波と川が造った段丘です。

 

このエントリーは紐ときっぱなしだった「方丈記でも紐といて」の終章ということにします。

 

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方丈記でも紐といて  

鴨長明「(位階は従五位下)平安時代末期久寿2年(1155年)から鎌倉時代の健保4年閏6月10日(1216年7月26日)」は、賀茂御祖神社(下加茂神社)の禰宜(ねぎ)鴨長継の二男として生まれた。

望んでいた河合社(ただすのやしろ)の禰宜の地位につけず、神職としての出世の道を閉ざされた。後に出家して蓮胤(れんいん)を名乗るが、普通は俗名の長明(ながあきら)(ちょうめい)と音読みする。

歌人であり、随筆家(エッセイスト)でもある鴨長明の方丈記「建暦2年(1212年)に成立」は、日本三大随筆の一つに数えられ、現代の文学にも影響を与え続けている。

 

 

 

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。

たましきの都のうちに、棟を並べ、甍(いらか)を争へる、高き、卑(いや)しき、人のすまひは、世々経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋(たず)ぬれば、昔ありし家はまれなり。

あるいは去年焼けて今年作れり。あるいは大家滅びて小家となる。住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。

(あした)に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水のあわにぞ似たりける。知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。

また知らず、仮の宿り、たがためにか心を悩まし、何(いずれ)によりてか目を喜ばしむる。その、あるじとすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異(こと)ならず。

あるいは露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。あるいは花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕べを待つことなし。

 

 

有名な方丈記の冒頭を記してみた。読み易いように改行し、カッコ書きで読みを入れたが、無用のことであったかも知れない。

たった一枚の、川に降る雪の写真から連想するには、少し大げさ過ぎたかとも思っている。紐ときっぱなしだが、ここで終わる。

 

 

ちなみに日本三大随筆とは、「清少納言 枕草子」

「吉田兼好 徒然草」「鴨長明 方丈記」とされている。

 

 

 

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真実は藪の中というが  

 

「藪の中」芥川龍之介が1922年(大正11年)雑誌「新潮」1月号に発表した小説です。「今昔物語集」巻29第23話の「具妻行丹波国男於大江山被縛語妻をつれて丹波の国へ行く男が、大江山で縛られた物語」この説話が題材となっています。

 

 

 

あらすじは、道中若い盗人に馬も弓も何もかも奪われて、そのあげく藪の中で縛られ、妻が手籠めにされる様子を見ていただけの、実に情けない男の話です。この話の語り部は妻の気丈さと、若い盗人の男気を褒め称えて話を締め括ります。

 

  

 

この情けない男に死を与えて、殺人事件に仕立て上げたのが、芥川龍之介作「藪の中」です。この作品では、京の都に近い山科の山中の藪の中に舞台を設定しています。ここで起こった事件を7人の関係者が、証言、告白する形で物語が展開していきます。

 

 

 

殺された男の霊と妻と盗人の証言は、盗人が藪の中で男を縛りその妻を手籠めにした。ここまでは一致するが、男の死因については「偶然」(盗人との太刀打ち)「他殺」(妻に小刀で刺殺される)「自殺」(妻が落とした小刀で胸を突く)と食い違っています。真相はどれか、犯人は誰かとなると、全てうやむやになってしまいす。

 

  

 

7人の証言者の内、残りの4人とは、

 

「樵」男の死体の第一発見者です。遺留品の(一筋の縄)と(女物の櫛)を見ている。馬と刀は見ていない。

 

「旅法師」事件が起きる前日に、男と馬に乗った女を見ている。

 

「放免」男の弓を持ち馬に乗った盗人多襄丸を捕縛、女は見ていない。(放免とは、当時の令外官検非違使の下部。放免囚人のこと。実際に犯人を探索、捕縛、拷問、獄守の任に当たる。)

 

」殺された男の妻真砂の母親です。殺された男が、若狭の国の国府の侍で金沢武弘だと証言する。姿の見えない娘を案じている。

 

どの証言ももどかしく、犯人を特定することは出来ません。                                   

 

 

 

この小説は推理小説なのか否か犯人は誰か、について真相を知りたいと思う人が大勢いたのです。現在まで100篇以上の論文が作られ議論されたそうですが、結論は出ていないということです。

 

「真実は藪の中の語は、この小説から来ています。流行した言葉ですが、最近はあまり聞かないような気がします。                                  

 

    

 

この小説を題材に撮った映画は幾つも有りますが、黒澤明の「羅生門」(1950年)が世界的に有名に成りました。

 

他にも、

 

「暴行」1964年アメリカ・監督マーチン・リット出演ポール・ニューマン

アイアン・メイズピッツバーグの幻想」1991年アメリカ・監督吉田博昭・出演ジェフ・フエイヒー、ブリジット・フォンダ、村上弘明他

「藪の中」1996年日本・監督佐藤寿保、出演松岡俊介、坂上香織、細川茂樹他

「MISTY」1997年年日本・監督三枝健起、出演天海祐希、金城武、豊川悦司

「TAJYOMARU」2009年日本・監督中野祐之出演小栗旬、柴木幸、松形弘樹他

 

            まだ探せば有るかもしれません。

 

   

 

 

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山岡荘八文学碑にて  

 山岡荘八 

   本名 藤野庄蔵       

         1907年 1月11日~1978年 9月30日

      明治40年         昭和53年  

 

明治40年 魚沼市(旧小出町佐梨)の山之内家に生まれる。

山之内庄蔵と名付けられた。

大正 9年、後妻として迎えた妻の藤野家に入り、藤野姓を継ぐ。

 

何かの折に郷土出身の作家山岡荘八氏の本名が、藤野氏である事に気づいて驚いた。調べて見たら上記の通りで、別に何事と言うほどの事ではなかった。

 

 

 

「菊ひたし われは百姓の 子なりけり」山岡荘八とある。

魚沼市小出を流れる魚野川左岸の、丘の上にある文学碑である。

菊ひたしとは、この辺りで良く食べられる食用菊のお浸しである。酢の物で食べられる事が多い。

この食用菊のことを、この辺りでは「おもいのほか」と云う。最近は「カキノモト」の名で、スーパーなどでも手に入る。

「食べてみたれば思いの外に、美味しい物ではないかいな」で「おもいのほか」である。

文学碑にある戯れ句は、色紙にある通りである。

 

 

今年の5月末に、思い切ってこの文学碑の在る高台まで散歩に出かけた。坂道を登り終えたら、こんな花、「山ぼうし・だと思うが」が咲いていた。少し汗ばんだ体に、魚野川を渡って来る風が心地良かった。

 

 

 

文学碑のある丘からの眺めである。魚野川は手前の森に隠れてしまっている。橋が見えるが、佐梨川が流れている。山之内庄蔵が生まれた所も、この写真のどこかに写っているはずである。

 

彼の文学を語るのは、私の任ではありません。著書の膨大さに溜息を付くくらいが、ちょうど良い所です。

 

 

      

category: 文学民話伝承

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権現堂の弥三郎婆伝説  

 

只見線の魚沼田中駅で降りるか、国道252号線を小出方面から来ると、田中に写真の様な変わった店が在ります。店の名は権現堂の弥三郎婆(やさぶろうばさ)とあります。店の後ろの山が権現堂山で、この山に弥三郎婆の伝説が残っています。

このお店の中は五人ほど掛けられるカウンター席があるだけです。手打ち蕎麦と手打ちうどんを食べさせてくれます。蕎麦は十割蕎麦で、どちらも目の前で打って食べさせてくれます。

 

 

「弥三郎婆は吹雪の夜に風に乗って飛んできて、夜更かしをしている子供や、言うことを聞かない悪い子供がいると、さらって食ってしまうぞ。」

 

魚沼の子供は悪いことをするとこう脅されたものです。冬の吹雪の夜など家の隙間から吹き込む雪が、弥三郎婆の白髪ではないかと怖い思いをしたものです。いつまでも寝小便が治らなかった子供は、この婆の伝説を聞かされて怖くてそうなのではないかと思います。

この弥三郎婆の伝説は県内各地に残っており、山形県や富山県にまで伝わっているようです。この伝説の中心になっているのは、弥彦神社で名高い弥彦村のようです。普通のお婆さんが妖怪になって行く過程もそれぞれ少しづつ違うようです。

 

 

魚沼地方に残る権現堂山の伝説はなんとも悲しくやるせない物語です。

 

この権現堂山の麓の村に住む弥三郎は、母親と、優しい嫁と、生まれたばかりの娘と、四人で暮らしていました。弥三郎は田畑の仕事の合間に山に入り、ぼい(薪)を切ったり、蕎麦を蒔く焼畑を作ったりと一生懸命働いていたそうです。

 

或る日仕事から帰った弥三郎は、疲れ切った様子で飯も食わずに寝てしまったので、心配した嫁が具合を見にいくと「大丈夫だから」と言うばかりだったそうです。その翌日何時までも起きてこない弥三郎の様子を見に行くと、弥三郎は冷たくなっていたそうです。嫁は悲しみのあまり泣き暮らし、弥三郎の後を追うように亡くなったそうです。

 

相次いで息子と嫁を無くした婆(ばさ)は、乳飲み子一人残されて途方に暮れたそうです。村の子持ちの所へ乳をもらいに行っても、流行病を心配した村人は堅く戸を閉ざして、誰も相手になってくれようとはしませんでした。毎日乳飲み子を抱いて頼んで回っても、誰一人相手にしてくれなかったのだそうです。

 

或る日のこと婆は疲れ切って、権現堂山を見上げながら石に腰かけて呆然としていたそうです。ふと気が付くと懐に抱いていた孫は、泣く事も止め冷たくなってしまったそうです。可愛い孫に乳さえ飲ませてやれず死なせてしまって、婆は嘆き悲しんだそうです。冷たい仕打ちの村の人たちを、心の底から恨んだことだと思います。

 

可愛い孫の死に顔を見ているうちに、また悲しみが襲って来たのでしょう。婆は柔らかい孫のふっくらとした頬に口を寄せて、抱き締めました。そして可愛さのあまりでしょうか、孫の頬に歯をたてて血を啜り、終いには貪り食らったそうです。婆の顔は、口が耳元まで裂け、目は釣り上がり、優しかった面影はどこにも残っていなかったそうです。孫を食い終わった婆は風を呼び空高く舞い上がり、権現堂山に飛んで行ってしまったそうです。

 

権現堂山に住みついた婆のことを、村人は弥三郎婆(やさぶろうばさ)といって恐れたそうです。風の強い吹雪の夜には、悪い子や言うことを聞かない子がいると、弥三郎婆が風に乗ってやって来て取って食ってしまったそうです。

 

大晦日に近い風の強い吹雪の日には、村人は「権現堂の婆が、弥彦の婆の所へ歳暮に行く日だな。良い子にしねいと、歳暮の代わりにさらわれてしまうぞ。」と子供を諭したそうです。

 

 

麓の村から権現堂山を仰ぐと、左から「小てっこう」「大てっこう」「下権現」の順に並んでいます。「てっこう」とはこの辺りの方言で、「高い」ことを指す言葉です。天向とでも書くのでしょうか。天辺に近いかも知れません。

 

かってバブルと呼ばれた時代に、この山にも開発の波が押し寄せ、大規模リゾートスキー場の話に沸きました。写真に写るスキー場の跡は、そのころの名残です。

この山の奥には弥三郎婆の住んでいたと云う洞窟がありますが、大型のブルドーザーで山肌を削り取られて行くのには、驚いたことでしょう。                          

                                「いちごさけもうした。」

 

「いちごさけもうした」とは、魚沼地方で昔話を語った後に付ける常套句です。私はこれを、「一語避け申した」ではないかと思っています。つまり、この昔話の話してはいけないことは話さなかったよ。私に祟らないでくれよ。と言う様なことかなと思ったりもしています。    

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