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2011年11月の記事一覧

11月26日の駒ガ岳  

 

お天気の良いのに誘われて、また山の写真です。今回は南魚沼市側からの物です。

この魚沼駒ケ岳の山名の由来は、春に馬の雪形が現れ、農事の目安になったことだと云われています。毎年その雪形を見ようと目を凝らしているのですが、残念ながらまだ目的を達成していません。

不思議ですね。誰にでもその季節に雪形が良く見えないと、農事の目安にならないはずなのに。

 

 

 

雪形はまた来春探すとして。どうですこの山頂からのスカイラインの伸びやかさ。まるで天馬が駆け抜けて、青い空に吸い込まれていったような、そんな感じを受けませんか。

 

 

 

街並みの上に駒が居る。山全体が守り神の白馬のようです。

 

 

 

さらに山に近づいて見ました。山頂の左から、ねじくれ曲がって下る尾根が、魚沼郡を南北に分けていた郡界尾根です。右の高みはグシガハナです。グシとは左右の屋根が交わる一番高いところです。ハナは鼻、先っちょ、ハナンド。山の峰を家の屋根に見立てた言い方です。急な峰の先端の意味です。

 

 

 

山から離れて一枚。と言っても私自身は、それほど大きく移動している訳でもありません。

 

 

 

帰り道に、残照で撮った写真です。反対側の山に太陽はもう沈んでいます。日が沈むと急に寒くなります。

category: 風 景

たすけて  

山茶花(サザンカ)  ツバキ科 ツバキ属 原産地 日本

           常緑高木 花期 10月~12月

 

さざんかさざんか咲いた道 たき火だたき火だ落ち葉焚き

    あたろうよあたろうよ 霜焼けおててがもうかゆい 

 

童謡の「たき火の歌」の2番です。懐かしく思い出される方も多いのではないでしょうか。

 

で、なんで「たすけて」何だかと言うと、下の写真なんです。この山茶花、縄で縛られ囲いに入れられたのがよほど嫌だったのか、「縄をほどけ」「もっと自由を」と言うのです。あげくに、よその人に「たすけて」とまで。まあ、笑われていました。それでお仕置きの為に、こうして晒してやろうかと思うのです。

 

 

 

山茶花はツバキの仲間ですが、花の散り様が違います。ツバキの花は、ポトンと全部落ちてしまいますが、山茶花の花は、花びらがハラハラと散って行きます。

 

  「山茶花を 雀のこぼす 日よりかな」 正岡子規

 

  「山茶花の 花や葉の上に 散り映える」高浜虚子

 

  「山茶花を 縛って囲って 冬じたく」 夢岳無才

 

こう並べてみますと、先人のお二人は花びらが散る様子を俳句にしておられますが、無学いや、夢岳無才氏の句を見ると、軽やかな俳味などは無く、人が立ち働く様子を写生しただけの鈍重で、野暮で野卑な物ではないかと思います。それが才無しと名前を付けた所以でしょう。どうりで良かれと思ったことで「たすけて」などと言われる訳です。

 

 

 

早く大きくなって、人の手を煩わせない大きな木になりたまえ。樹高10mを越える大木にだって成れるのだから。

 

山茶花の花言葉は「困難に打ち勝つ」「ひたむき」 です。

その他に、白花は「愛嬌」「理想の恋」

  赤、桃色花は「理性」「謙遜」   なんだそうです。

 

この花は珍しく、白花が女性的で、赤、桃色花が男性的なのかな。どうりで我が家の桃色花が、私にたて付く訳です。

 

         

 

 

category: 植物の記

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真実は藪の中というが  

 

「藪の中」芥川龍之介が1922年(大正11年)雑誌「新潮」1月号に発表した小説です。「今昔物語集」巻29第23話の「具妻行丹波国男於大江山被縛語妻をつれて丹波の国へ行く男が、大江山で縛られた物語」この説話が題材となっています。

 

 

 

あらすじは、道中若い盗人に馬も弓も何もかも奪われて、そのあげく藪の中で縛られ、妻が手籠めにされる様子を見ていただけの、実に情けない男の話です。この話の語り部は妻の気丈さと、若い盗人の男気を褒め称えて話を締め括ります。

 

  

 

この情けない男に死を与えて、殺人事件に仕立て上げたのが、芥川龍之介作「藪の中」です。この作品では、京の都に近い山科の山中の藪の中に舞台を設定しています。ここで起こった事件を7人の関係者が、証言、告白する形で物語が展開していきます。

 

 

 

殺された男の霊と妻と盗人の証言は、盗人が藪の中で男を縛りその妻を手籠めにした。ここまでは一致するが、男の死因については「偶然」(盗人との太刀打ち)「他殺」(妻に小刀で刺殺される)「自殺」(妻が落とした小刀で胸を突く)と食い違っています。真相はどれか、犯人は誰かとなると、全てうやむやになってしまいす。

 

  

 

7人の証言者の内、残りの4人とは、

 

「樵」男の死体の第一発見者です。遺留品の(一筋の縄)と(女物の櫛)を見ている。馬と刀は見ていない。

 

「旅法師」事件が起きる前日に、男と馬に乗った女を見ている。

 

「放免」男の弓を持ち馬に乗った盗人多襄丸を捕縛、女は見ていない。(放免とは、当時の令外官検非違使の下部。放免囚人のこと。実際に犯人を探索、捕縛、拷問、獄守の任に当たる。)

 

」殺された男の妻真砂の母親です。殺された男が、若狭の国の国府の侍で金沢武弘だと証言する。姿の見えない娘を案じている。

 

どの証言ももどかしく、犯人を特定することは出来ません。                                   

 

 

 

この小説は推理小説なのか否か犯人は誰か、について真相を知りたいと思う人が大勢いたのです。現在まで100篇以上の論文が作られ議論されたそうですが、結論は出ていないということです。

 

「真実は藪の中の語は、この小説から来ています。流行した言葉ですが、最近はあまり聞かないような気がします。                                  

 

    

 

この小説を題材に撮った映画は幾つも有りますが、黒澤明の「羅生門」(1950年)が世界的に有名に成りました。

 

他にも、

 

「暴行」1964年アメリカ・監督マーチン・リット出演ポール・ニューマン

アイアン・メイズピッツバーグの幻想」1991年アメリカ・監督吉田博昭・出演ジェフ・フエイヒー、ブリジット・フォンダ、村上弘明他

「藪の中」1996年日本・監督佐藤寿保、出演松岡俊介、坂上香織、細川茂樹他

「MISTY」1997年年日本・監督三枝健起、出演天海祐希、金城武、豊川悦司

「TAJYOMARU」2009年日本・監督中野祐之出演小栗旬、柴木幸、松形弘樹他

 

            まだ探せば有るかもしれません。

 

   

 

 

category: 文学民話伝承

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ナナカマド  

ナナカマド バラ科 ナシ亜科 ナナカマド属 落葉高木

       原産・分布 北海道~九州 アジア東北部

 

ナナカマド(七竈)花期は初夏、6月頃白い花を密集させて付ける。七たび竈にくべても焼け残ることから名が付いたとも、この木を炭に焼くに七日間かかったから付いたとも云われる。

この材は硬く上質な木炭になると言うが、他の材とは焼成の時間が違うので、一緒に焼かれる事は無かったと思う。専門に焼いたとも聞いた事がないが、一窯分の材が揃えば焼いたのかも知れない。

他の地方では専門に焼いた所も有るかも知れないが、私の狭い見聞の内だから詳細は分からない。ただ、囲炉裏で燃やす時にはいぶるので、厄介者扱いであった。

 

 

山から移植したものです。六年目になりますが毎年花を咲かせてくれます。六月の下旬に撮影しました。

この木は燃えにくいところから、火災除け、落雷除けとされ、神社に植えられていたりします。別名を雷電木と云います。最近は街路樹などでも見るようになりました。

この木は花も咲かすし実も成ります。実は赤く熟して冬でも落ちません。恰好な小鳥の冬のエサになります。なんとも、花も実もある優しげな木です。

花言葉は、「慎重」「賢明」「用心」「私と一緒にいれば安心」「怠りない心」と言うそうです。侍の風格をもった、頼りになる男性を指しているように思いませんか。

  

category: 植物の記

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雑木林の雪  

 昨日降っていた雪が止み、青空が広がっている。日の当た

 所は温かいが、風は冷たい。日は高く上っているのに、雪は

 まだ溶けようとはしていない。

 

  

 

 雑木林は近くで見ると、木の根元が雪でいっぱいである。

 

 

 

 大きな木々の下には、落とした雪が下生えを埋めている。

 

 

 

  毎年の事なので、ねじくれ曲がった木が密林のようだ。

 

 

 

  いつまでも葉を落とさない木々は、雪の重さで折られる。

 

  

 

  葉を落とした木は、青空に向かい精一杯枝を広げている。

 

 

 

 まだ紅葉し終えていない木さえある。綺麗ではあるのだが。

 

  

 

雑木林から出ると遠くの山が良く見える。権現堂に唐松岳か。

 

 

 

雪原と化した公園の芝生の原には、遊んでいる人の姿は無い。

 

 

category: 風 景

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山岡荘八文学碑にて  

 山岡荘八 

   本名 藤野庄蔵       

         1907年 1月11日~1978年 9月30日

      明治40年         昭和53年  

 

明治40年 魚沼市(旧小出町佐梨)の山之内家に生まれる。

山之内庄蔵と名付けられた。

大正 9年、後妻として迎えた妻の藤野家に入り、藤野姓を継ぐ。

 

何かの折に郷土出身の作家山岡荘八氏の本名が、藤野氏である事に気づいて驚いた。調べて見たら上記の通りで、別に何事と言うほどの事ではなかった。

 

 

 

「菊ひたし われは百姓の 子なりけり」山岡荘八とある。

魚沼市小出を流れる魚野川左岸の、丘の上にある文学碑である。

菊ひたしとは、この辺りで良く食べられる食用菊のお浸しである。酢の物で食べられる事が多い。

この食用菊のことを、この辺りでは「おもいのほか」と云う。最近は「カキノモト」の名で、スーパーなどでも手に入る。

「食べてみたれば思いの外に、美味しい物ではないかいな」で「おもいのほか」である。

文学碑にある戯れ句は、色紙にある通りである。

 

 

今年の5月末に、思い切ってこの文学碑の在る高台まで散歩に出かけた。坂道を登り終えたら、こんな花、「山ぼうし・だと思うが」が咲いていた。少し汗ばんだ体に、魚野川を渡って来る風が心地良かった。

 

 

 

文学碑のある丘からの眺めである。魚野川は手前の森に隠れてしまっている。橋が見えるが、佐梨川が流れている。山之内庄蔵が生まれた所も、この写真のどこかに写っているはずである。

 

彼の文学を語るのは、私の任ではありません。著書の膨大さに溜息を付くくらいが、ちょうど良い所です。

 

 

      

category: 文学民話伝承

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イタヤカエデ  

イタヤカエデ(板屋楓)カエデ科 カエデ属

 

      別名 トキワカエデ(常盤楓)

      他に イタギ(板木) ツタモミジ(蔦椛)  

      分布 北海道~九州、南千島、樺太、朝鮮

      原産 半島、中国、西アジア、欧州

 

落葉広葉樹で高木になります。樹高20m、直径1mに達するものもあると言います。

「かえで”の語源は「蛙手(かえるて)」が転じたものであり、カエルの様に水かきが付いた手をイメージしていると考えられています。(国営越後丘陵公園ホームページから引用)

板屋楓の名の由来は、雨宿りが出来るくらい葉が生い茂る、板屋根の様な楓であるからだとも云われています。

 

 

散歩の途中に、枯れた茅叢の中に隠れたように黄葉しているイタヤカエデを見つけました。何時もは茅が生い茂り見えなかったものが、茅が枯れて倒れたので目に止まったようです。まだ若い木ですが黄色く染まった葉が目に染み入ります。

イタヤカエデは世界的に見ても種類が多くて、十種類以上がイタヤカエデ節を構成しているのだそうです。変種や亜種を数えると、膨大になると言う事です。

用途は建築材、主に床柱のような装飾材になるようです。変わったところでは、樹液が日本のカエデの中では一番甘く、煙草の香料に使われているそうです。  

 

   

 

この花はイタヤカエデの花です。以前ネットで拾った物ですが綺麗な花です。

花言葉は「遠慮」「慎み深い」「謹慎」とありました。遠慮、慎み深いまではイメージできますが、謹慎とは穏やかではありません。どういうことでしょう。

もう一度調べたら、「節制」「遠慮」「自制」「大切な思い出」となっているのもありました。謹慎と大切な思い出の違いの様ですが、私は後者を選びたいですね。

 

 

category: 植物の記

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雪山の見える風景  

 「11月22日火曜日午後1時青天」魚沼市月岡公園にて!

 

 テニスコートはネットを外し、保護シートを敷いてある。

 

 床のシートが風で飛ばない様に、長い棒で押さえて在る。

 

 ユンボと枯れ葉の森の後ろには、雪化粧を終えた山々。

 

 枯れ葉の森と中ノ岳。ほんわりと雲の帽子を冠っている。

 

 魚沼駒ケ岳が屹立する。妥協を許さない厳父の様な山だ。

category: 風 景

日陰に咲く花「シャガ」  

シャガ    アヤメ科   アヤメ属    原産国 中国

 

                              常緑多年草  花期 4月 5月

 

シャガは別名「胡蝶花」とも言うそうです。胡蝶蘭と間違えそうですね。

古代中国では胡と云う字に異民族の意味があります。異国の蝶の様な花の意味でもあったのでしょうか。

胡蝶と言えば、司馬遼太郎の「胡蝶の夢」という小説があります。幕末の佐渡ガ島出身の語学の天才を書いた物です。最後は悲劇的な死を迎えます。

胡蝶と言い天才と言い何だか妖しい響きを感じます。

 

 

シャガの学名はInsjaponicaと言いますが、原産国は中国です。古い時代に帰化した「史前帰化植物」と言われるものなのだそうです。そう言われてみれば、人里近くの杉林の中とか、お寺の庭とか、山の中でも元集落があった所の、日陰に群落を作っているようです。

 

シャガは地下茎で増えて行きますが、実を付けません。アヤメ科にしては珍しいのだそうです。その理由は染色体が3倍体だからで、実を付けるのは2倍体なんだそうです。

 

 

シャガの花言葉は(反抗、抵抗、私を認めて、友人が多い)と言います。なんだか青春時代を謳歌する若者みたいな花言葉です。

 

category: 植物の記

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一瞬の華やぎ雪の花  

昨日の初雪で庭のナナカマドノに雪が積もりました。写真は夕方のものです。もっと暗くなってから、もう一枚と思っていたのですが、雪が止んでしまいました。これもストロボ撮影なのですが、もっと暗いと幻想的なものになったかも知れません。

 

        

 

今年はほとんど寒気らしい物が来ていなかったので、紅葉が完了していません。まあ、青藪に雪が降る事もあるのですから、これくらいは了としなければならないのでしょう。

紅葉に雪が被って、これだけ見れば華やかな雪の花にも見えるでしょうか。完全な白い世界も悪くは無いのですが、冬籠りを前にした一瞬の艶やかさです。

この雪で葉が落ちてもナナカマドは、実を落としません。氷ってしまうことも、腐ってしまうこともありません。それには訳が在るのです。実に食品保存料に使われる「ソルビン酸」が蓄積されているからです。冬の間の野鳥たちの貴重な食料となり、代わりに種を遠くまで運んでもらい仲間を増やす。何と自然の極め細やかな配慮ではありませんか。

 

 

category: 風 景

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初雪到来  

初夢、初恋、初音ミクじゃない。初雪です。雪やこんこんです。11時頃、何だか静かだなと外を見たら、この通り積り始めています。

 

家の前の田んぼです。何も言わず白くなって行きます。

 

イチゴの木が「おらこんな所嫌だ♪」と泣いてます。

 

お隣の松も「寒いがな」と言っているようです。

 

雪の降る空を仰ぐと、雪は黒くなって降って来ます。

まだ根雪には成らないと思いますが、とうとう冬になってしまったようです。 

category: 風 景

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柿の実  

柿の木  

    カキノキ科 カキノキ属  原産 東アジア

        

 

「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」は正岡子規ですが、「柿食えばつるべ落としの秋の夕」とか「柿食えば歯カタカタと鳴りにけり」は誰だったかな。

最近は渋抜きした大きな柿が売られていますが、昔は小さな甘柿が大切なおやつでした。

 

 

上の写真の様な小さな実を付ける柿の木は珍しくなりました。

これは甘柿です。食べさせて貰ったので間違いありません。

柿をくれた爺さまによると、「柿の木は脆いから危なくて登れない。」こんな大きな木は、今では厄介者なんだそうです。

日本の柿の生産量は、世界の7割ほどを占めるそうです。欧米ではかなり珍しい果物のようです。

「日本の妖怪」によると東北の仙台には、古木の柿の実を採らないでおくと、タンタンコロリンと言う大入道に化けた話が伝わっています。採って貰えなかったことを怒ったのでしょうか、それとも食べて貰えないことが、悲しかったのでしょうか。

柿の花言葉は「恵み、優美、自然美」だそうです。日本の秋の風景には、欠かせない点景ではないかと思います。

 

 

category: 植物の記

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ムラサキシキブ  

 ムラサキシキブ   クマヅラ科 原産 日本 台湾                  

                    中国 朝鮮半島

 

ムラサキシキブは秋に光沢のある美しいムラサキ色に色づき、一節ごとに沢山の実を付けるので見ごたえがあります。名前の由来は平安時代の女官で、源氏物語の作者の紫式部から来ています        

 

 

このムラサキシキブは、地元の山から小さなものを採って来て、友人宅の庭に植えたものです。先日通りかかった折に撮って来ました。雪荒れした翌日で寒かったのですが、葉も落とさず丈夫なものです。

ムラサキシキブの花言葉は「上品、聡明、愛され上手」なんだそうです。男性ならそういう女性と、出会って見たいと思いませんか。

category: 植物の記

金毘羅山と剣岳  

金毘羅山です。以前古いダムを紹介したときの岩山です。二枚とも同じ山ですが、ほんの少し角度が変わると、違う山の趣があると思います。

 

   

私が山好きになったのは、しかも岩山が好きになったのは、どうもこの金毘羅山のせいなんです。

子供の頃に見た映画の、ロッククライミングのシーンがいやにカッコ良くて、ハマってしまったのです。その時に目を付けたのが、これ、この岩壁なんです。でもダムの堰堤は渡れないし、川からは近づけないし、諦めてしまいました。そのときの思いが残っていたのか、その後、谷川岳や日本アルプスへ足を延ばすようになりました

      

この写真は18年前の私です。顔のところに光が反射して、表情が見えません。残念ですね二枚目なのに。まだ下腹もぽっこり出ていません。剣沢のキャンプサイト近辺での写真だったと思います。季節は8月半ばを過ぎていました。

 

立山の雄山神社です。3003mの標高です。もちろん参拝してきました。

 

この写真は雷鳥沢を下り立山(3003)を撮ったものです。一ばん右の雄山から、大きなスプーンでこそげ取った様な所が山崎カールです。帝国大学の山崎教授が、日本で初めて氷河圏谷の痕跡を発見した所とされています。

背の高い花はコバイケイソウ、手前の白い花はチングルマ、黄色っぽく見えるのはチングルマの花穂のようです。

  

                 

立山の富士の折立を下る途中からです。右側に内蔵助カールが残雪をべったり付けています。下り終わると真砂岳(2860)まで標高差50mくらいです。稜線を登った右が別山(2874)です。その奥の三角形の山が剣岳(2998)です。別山から稜線を左に別山乗越方面に行き、途中から痩せ尾根を剣沢へ下りました。このときは剣沢小屋に泊まりました。

 

        

先頭が私です。ここから垂直の壁を鎖を頼りにトラバースして行きます。

 

                  

上が私です。右下に平蔵のコルの避難小屋が見えます。壊れていて使用不可です。写真ではスリリングに見えるかも知れませんが、それほど大変な所ではありません。

 

        

カニの縦這いの難所です。下山にはカニの横這いを通りますが、使える写真がありません。そちらもスリリングな所です。

      

剣岳の山頂です。何とも無粋な顔の消し方ですね。この写真を撮ったのは7時30分くらいでした。8時20分下山開始と山日記にありました。

 

下山時に撮ったものです。これだけ近いと、剣岳も尖って見えませんね。

 

   

雷鳥坂を下り称名川の板橋を渡って、雷鳥平のキャンプ場へ行くところです。バックに薄く見える山は大日三山の一部です。この山域も古くからの立山信仰登山の影響で、仏教由来の名が方々に付けられています。

剣岳は往時には地獄の針の山とされ、行けない山、近づけない山であったので、あまりその影響は受けていない様に思われます。むしろ、近代スポーツ登山の影響から、チンネのようなヨーロッパ風に名付けられたものもあります。何れにしても剣岳は、北アルプス北部の岩と雪の殿堂でありつづけています。  

category: 山の日記

魚沼三山雪化粧  

午後三時に仕事を切上げて、デジカメ一つ持って散歩に出かけました。雪化粧をほどこした山の写真が撮りたかったのです。もう少し早めに行きたかったのですが、なかなか思うようにいきません。

 

魚沼三山と町なみと魚野川です。冠雪した山は左から、魚沼駒ケ岳(2003m)、中ノ岳(2085m)、八海山(1778m)の順に並んでいます。

 

魚沼駒ケ岳をちょっとだけズーミング。この山は深田久弥氏選定の百名山の一つでもあります。

 

中ノ岳もちょっとだけズーミング。一番奥に位置する山です。

 

八海山もちょっとだけズーミング。山岳信仰の山です。

 

今度は大きくズーミングした魚沼駒ケ岳。

 

中ノ岳も大きくズーミング。

 

八海山も大きくズーミングしてみました。

 

三様の山の写真です。雪もまだ薄化粧と言ったところでしょうか。

category: 風 景

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散り残りの紅葉と目黒邸  

散り残りの椛でも見ようと、目黒邸を覗いてみました。山の雪もずいぶん下まで降りて来ましたが、残った紅葉はかえって色を増したようです。

 

目黒邸の後ろ姿です。 

 

瓦屋根の建物は、御蔵です。 

 

全体はこんな感じです。 

 

離れ座敷の「チョ亭」です。木の間から見えています。 

 

休憩所のようです。 

 

高台に建つ亭です。 

 

散策路の橋です。 

 

駐車場に観光バスが入って来ました。そろそろ退散しましょう。

そう言えば駐車場付近に、糸魚川藩領時代の代官所があったと聞いています。

category: 風 景

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山が白くなった  

寒い寒いと思っていたら今朝(16日)は山が白くなっていました。時々日も射していましたが、寒い一日でした。

雪荒れすると翌日は晴れるなんて云いますが、今日は降られないだけでも良しと言う感じです。

 

下権現堂山と上権現堂山の朝の様子です。この山に三回雪が降ると里に降るなどと云われています。

 

権現堂山を裏から見るとこんな感じです。こちら側も寒そうですね。

 

巻機山です。朝は逆光になるので、見辛いですが白くなっています。

 

午後3時30分の八海山です。ずいぶん下まで雪が来ました。

 

魚沼駒ケ岳です。グシがハナへと続く稜線がスッキリと見えました。これも午後3時30分の画像です。

 

だんだんと雪が下まで降りてきて、平地に初雪が降るのも、もうすぐです。こうやって遠くから眺めている分には綺麗な雪なんですが、身近に降り始めると、嫌な雪に変わってしまいます。毎年の事ですが、これから雪が積もってしまうまでの間が、一番嫌な季節です。

 

 

 

category: 風 景

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二十三夜の月  

 

月待ちという如何にも優しげな言葉がある。月を愛でる為に月の出を待つのであろうと思っていたが、どうやら別の意味合いがあったようだ。
 

調べてみると月待ちとは、信仰する月齢の月の出を待つことであった。月信仰の講中の人達が集まり、飲食を共にして月を拝み、経を唱えて悪霊を払うという宗教行事である。信仰の対象としては、「十三夜は虚空蔵菩薩、十五夜は大日如来、十七夜から二十二夜は観音菩薩、二十三夜は勢至菩薩、」と月に仏や菩薩を配し、信仰の対象としていたのである。ここで取り上げた二十三夜の月とは、勢至菩薩である下弦の月のことである。
 

 

月は勢至菩薩の化身とされていたので、二十三夜の月待ち信仰が一般的で、日本全国に供養のしるしとして建立した石碑が残っている。この信仰は江戸の文化、文政の頃流行したものであったようだが、明治になってこの信仰は迷信とされ、取り払われたり、その後の道路拡張工事で移転されたりで、元の位置にそのまま残るのは少なくなったと言うことである。

 

「勢至菩薩は智慧の光をもってあらゆるものを照らし、すべての苦しみを離れ、衆生に限りない力を得させる菩薩とされている。」

 

 

 

川端康成の雪国で知られる湯沢町の三国峠に、魔性の者に襲われた人が、二十三夜様の力で助かったと云う伝説がある。

 

或る夜の事、行商人が夜道を歩いていると、白い着物姿の女が赤ん坊を抱いてたっていた。女はその赤ん坊を、行商人に抱いてくれと言う。魔性の者と気付いた行商人だったが、女の白い肌に心を奪われ、動く事が出来なくなっていた。女が動くともなく静かに近づいて来ると、すくんでいた行商人の目に、雲間から出たお月様が目に入ってきた。その月に向かって一心不乱に祈ったところ、月はこうこうと辺りを照らしだした。ふと気が付くと妖しい女は消えていた。ちょうどこの夜は二十三夜で、魔性の者は月の光の力によって打ち払われたと云うことである。

 

番外として三国峠に少しふれておきたいと思う。大名行列も佐渡の黄金も旅人も通った峠ですぞ。

 

 

         「三国権現(御坂三社神社)と三国山」

 

三国街道の最難所であった三国峠の社には、越後弥彦神社、上野赤木明神、信濃諏訪明神と、三国の一宮が祀られている。昔はこの辺りが三国の境とされていたが、現在の県境はもう少し西に寄っている。

category: 歴史よもやま話

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今年の秋終い  

11月12日は穏やかによく晴れた日でした。「天高く空の青さが目に染みる 作物太り馬肥ゆる秋」そんな訳で、主な作物の収穫をしました。とはいっても細々とした作業は、ほとんどオカーチャン任せでした。

 

   

 

まあその前に庭木を見ましょう。左の写真は山ぼうしとナナカマド。右は山ぼうしのアップです。

 

   

 

左はシャラとブナです。右はシャラ(夏椿)のアップです。一風来れば吹き飛ぶ枯れ葉ですね。。

 

   

 

まだ咲いている秋明菊と今日収穫した白菜です。丸々と肥えています。鍋で食べると美味しいですよ。漬け物にもします。

 

   

 

カブと辛味大根とムラサキ大根です。それにネギです。

 

    

 

大根は干して沢庵漬けにします。転がしてあるのも沢庵にします。葉っぱが美味しそうだったので切り落とした物です。

暖かいと言うより暑くて、Tシャツ一枚で作業していました。それでも汗が出ました。通りかかった友人に、あんちゃん見たいな格好だなと、からかわれてしまいました。

全部終わった訳ではないのですが、とりあえずこれで今年の秋終いです。

category: わが家の庭の記

権現堂の弥三郎婆伝説  

 

只見線の魚沼田中駅で降りるか、国道252号線を小出方面から来ると、田中に写真の様な変わった店が在ります。店の名は権現堂の弥三郎婆(やさぶろうばさ)とあります。店の後ろの山が権現堂山で、この山に弥三郎婆の伝説が残っています。

このお店の中は五人ほど掛けられるカウンター席があるだけです。手打ち蕎麦と手打ちうどんを食べさせてくれます。蕎麦は十割蕎麦で、どちらも目の前で打って食べさせてくれます。

 

 

「弥三郎婆は吹雪の夜に風に乗って飛んできて、夜更かしをしている子供や、言うことを聞かない悪い子供がいると、さらって食ってしまうぞ。」

 

魚沼の子供は悪いことをするとこう脅されたものです。冬の吹雪の夜など家の隙間から吹き込む雪が、弥三郎婆の白髪ではないかと怖い思いをしたものです。いつまでも寝小便が治らなかった子供は、この婆の伝説を聞かされて怖くてそうなのではないかと思います。

この弥三郎婆の伝説は県内各地に残っており、山形県や富山県にまで伝わっているようです。この伝説の中心になっているのは、弥彦神社で名高い弥彦村のようです。普通のお婆さんが妖怪になって行く過程もそれぞれ少しづつ違うようです。

 

 

魚沼地方に残る権現堂山の伝説はなんとも悲しくやるせない物語です。

 

この権現堂山の麓の村に住む弥三郎は、母親と、優しい嫁と、生まれたばかりの娘と、四人で暮らしていました。弥三郎は田畑の仕事の合間に山に入り、ぼい(薪)を切ったり、蕎麦を蒔く焼畑を作ったりと一生懸命働いていたそうです。

 

或る日仕事から帰った弥三郎は、疲れ切った様子で飯も食わずに寝てしまったので、心配した嫁が具合を見にいくと「大丈夫だから」と言うばかりだったそうです。その翌日何時までも起きてこない弥三郎の様子を見に行くと、弥三郎は冷たくなっていたそうです。嫁は悲しみのあまり泣き暮らし、弥三郎の後を追うように亡くなったそうです。

 

相次いで息子と嫁を無くした婆(ばさ)は、乳飲み子一人残されて途方に暮れたそうです。村の子持ちの所へ乳をもらいに行っても、流行病を心配した村人は堅く戸を閉ざして、誰も相手になってくれようとはしませんでした。毎日乳飲み子を抱いて頼んで回っても、誰一人相手にしてくれなかったのだそうです。

 

或る日のこと婆は疲れ切って、権現堂山を見上げながら石に腰かけて呆然としていたそうです。ふと気が付くと懐に抱いていた孫は、泣く事も止め冷たくなってしまったそうです。可愛い孫に乳さえ飲ませてやれず死なせてしまって、婆は嘆き悲しんだそうです。冷たい仕打ちの村の人たちを、心の底から恨んだことだと思います。

 

可愛い孫の死に顔を見ているうちに、また悲しみが襲って来たのでしょう。婆は柔らかい孫のふっくらとした頬に口を寄せて、抱き締めました。そして可愛さのあまりでしょうか、孫の頬に歯をたてて血を啜り、終いには貪り食らったそうです。婆の顔は、口が耳元まで裂け、目は釣り上がり、優しかった面影はどこにも残っていなかったそうです。孫を食い終わった婆は風を呼び空高く舞い上がり、権現堂山に飛んで行ってしまったそうです。

 

権現堂山に住みついた婆のことを、村人は弥三郎婆(やさぶろうばさ)といって恐れたそうです。風の強い吹雪の夜には、悪い子や言うことを聞かない子がいると、弥三郎婆が風に乗ってやって来て取って食ってしまったそうです。

 

大晦日に近い風の強い吹雪の日には、村人は「権現堂の婆が、弥彦の婆の所へ歳暮に行く日だな。良い子にしねいと、歳暮の代わりにさらわれてしまうぞ。」と子供を諭したそうです。

 

 

麓の村から権現堂山を仰ぐと、左から「小てっこう」「大てっこう」「下権現」の順に並んでいます。「てっこう」とはこの辺りの方言で、「高い」ことを指す言葉です。天向とでも書くのでしょうか。天辺に近いかも知れません。

 

かってバブルと呼ばれた時代に、この山にも開発の波が押し寄せ、大規模リゾートスキー場の話に沸きました。写真に写るスキー場の跡は、そのころの名残です。

この山の奥には弥三郎婆の住んでいたと云う洞窟がありますが、大型のブルドーザーで山肌を削り取られて行くのには、驚いたことでしょう。                          

                                「いちごさけもうした。」

 

「いちごさけもうした」とは、魚沼地方で昔話を語った後に付ける常套句です。私はこれを、「一語避け申した」ではないかと思っています。つまり、この昔話の話してはいけないことは話さなかったよ。私に祟らないでくれよ。と言う様なことかなと思ったりもしています。    

category: 文学民話伝承

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もうひとつの古い家  

 

国指定重要文化財 旧佐藤家住宅 昭和五十二年一月二十八日指定とある。この住宅が建設された当時は大倉村。重文に指定された当時は、守門村大字大倉。そして現在は魚沼市大倉と言う事になっている。

 

建築様式は曲り屋で、上から見ればL字形をしている。入り口を入ると右側が厩になっている。この形式の家は、東北地方にも多い。

大黒柱は丁斧削り、材はブナの木、寸法はおおよそ七寸であった。ブナは木で無しと書くくらい脆い材であるが、長い間囲炉裏の煙に燻されたそれは、鈍く艶を佩び家の守り神そのものであった。

 

 

正面から見ると石組みの基礎の上に建っているのが判る。背後に鳥屋ガ峰の僧正ガ岳を控えさせた姿は、重厚な歴史を感じさせる。

この家の近くには代々庄屋を務めた家があるが、古い家は現存していない。この佐藤家より二回りほど大きな、背の高い家が有ったのを覚えている。

 

少し斜めから撮ると、曲り屋であることが確認できる。破風の形が異様に見えるかも知れないが、屋根葺きの茅を刈り込んだ富士形と、末広がりの八の字に見えないだろうか。見ることのできた皆さんに、善きことが有りますように・・・(^^)

 

山の中腹にある馬頭観音の鐘突堂である。木の葉が散って僅かに見えている。ここの鐘は時知らずの鐘とされ。何時誰がお参りをして突いても良い事になっている。その時には自分や家族だけでなく、多くの善男善女の幸せをも祈りながら突くのは言うを待たない。

category: 歴史よもやま話

昨日の仕事  

 

庭の樹木の雪囲いをしました。多分今年の冬も2m以上の雪に埋もれることでしょう。これを書いている現在、外は冷たい雨がシトシトと降っています。冬を迎える仕事はいっぱい残っていますが、今日はすべてOFにします。まだ晴れる日も有るさと、のんびりとしています。

 

ツツジ類です。ドウダンツツジが2本に、クルメツツジと何だっけなあ。名前を忘れてしまいました。手前の雑草みたいなのは、ヒメショウブです。友人からもらった一株の鉢植えが、縁飾りの様に増えました。花の季節には目を楽しませてくれます。

 

   

ストロベリーツリーです。選定し      鉢植も囲いの中に入れました。

たのでスリムになりました。         どうでもいい物ばかりです。      

   

東側の庭の一部です。手前の草みたいなのは、ラデッシュです。花の種と間違えたのです。美味しく頂いています。

 

   

大きい方のドウダンツツジと、名前   玄関脇の南天です。実の付きが

を忘れたツツジです。            イマイチです。もっと赤くなれよ。

 

山茶花です。咲かないうちに囲われてしまいました。まあ仕方ないか。

 

そんな訳で、これを書き終えるとヒマです。ネタ探しに出かけても、写真も撮れないしなあ。どうしよう。やっぱり貧乏性なのか暇に成ると落ち着かない。自分のことながら笑えますね。

 

では、これは明日の朝にセットして、遊びに行ってこようっと!!

 

 

category: 風 景

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広神ダム  

 

兎畑(うさぎばたけ)と言う可愛らしい名前の集落が此処にあった。長い歴史の中で増減は有ったのであろうが、ダムによる集落移転では全世帯18軒がこの地を去った。昭和63年12月のことである。

 

石碑の文字も薄れ、二十数年の時が過ぎ去った事を感じさせる。

 

満水のダムの堰堤である。紅葉も堰堤も水面に写り面白い絵になった。

 

   

ダム湖には名は無い。晩秋の風が心地良い。紅葉ももうすぐ散っていく。

 

   

水を溜める前のダムのようす。       雪に埋もれて行くダムのようす。

  

  

ダムの堰堤を下から仰ぐとこんな感じである。滑り台にはちょっと急だ。

 

堤高80.5m、堤頂長225m、堤体積314千㎥、1979年着手、2010年竣工とある。

このダムは信濃川水系破間川支川和田川の洪水対策を主目的に造られた多目的ダムである。

和田川は流域面積47.4K路延長14.7㎞級河川である。

 

category: 風 景

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目黒邸    

 

只見線の須原駅を降りると、巨大な建造物が目に入って来る。茅葺の入母屋造り。豪農の館目黒邸である。敷地が5反(1500坪)あることから、5反名とも云われている。往時は大庄屋として近在の村々の庄屋のまとめ役であった。

 

先祖は伊達正宗に攻め滅ぼされた、会津の葦名氏の家臣であったらしい。

館の主であった目黒家の姓の起りは武蔵の国(現東京都)の目黒だと云われている。武蔵七党の流れを汲む家で、江戸氏の圧迫を受け奥州へ移動したとの説もある。

 

国指定重要文化財
・種別/建造物
・指定名/旧目黒家住宅
・指定年月日/昭和49年2月5日/追加指定1:昭和53年5月31日

                       追加指定2:平成 5年4月20日
・所有者・管理者/魚沼市
・時代/江戸後(寛政9)他

 

降雪を前に樹木の雪囲いが施されている。木々はまだ紅葉している。

 

 

巨体を誇示する茅葺屋根。天辺のグシが屋根をまとめ引き締める。

 

入母屋の所が玄関になっている。この屋根材の茅の確保も大変だ。

 

正面の門を(無掲載)大手門とすれば、此方は搦手門と言うべきか。

 

庭の様子である。木々に隠れて見えずらいが、建造物の厚みが凄い。

 

その昔近在の百姓たちは不作で飯が食えなくなると、この家の台所で飯を食ったそうである。借りは労働で返したと云うことだが、この家の役目は近在の村々の庄屋の取りまとめや年貢の差配だけでなく、百姓たちの安全装置の役割も担っていたのであろう。

 

どうでもいいような話だが、新潟県で自動車の所有が一番早かったのはこの家であった。実物を見たような見ない様な、記憶はあやふやだが、T型フォードの様な形である事だけは覚えている。あるいは写真で見たのかも知れない。

 

この帰りに何年振りかで師匠の一人に行き合った。野鯉釣りの師匠である。17㎏の野鯉を釣り上げたのが自慢で、この日もまた聴かされた。83歳に成りボケ始めていると家人は言うが、私は夢中に成って野鯉を追った日々のことが思い出され、懐かしく嬉しい時間であった。                                                

 

           

        おまけ(積雪期)目黒邸ホームページから転載

category: 歴史よもやま話

鉄橋のある風景  

 

この鉄橋を初めて渡ったのは3歳の時と記憶している。もちろん歩いて渡ったのではない。当時この鉄橋を走っていた只見線は蒸気機関車で、それに乗って渡ったのである。

 

 

母と一緒だったのは覚えている。何故覚えているかと言うと、その時の会話を覚えているからである。

初めて乗った乗り物に興奮していたのであろう。ゴトンゴットン、ゴトンゴットンと列車に揺られながら鉄橋にさしかかった時、下に広がる水たまりを見て「かっかあ、海だ海が見えるぞ!」と素っ頓狂な声を上げたのである。

あんまり大きな声であったから母も驚いたのであろう。「ばか、あれは海じゃねえ。海はもっと大きい。」と慌てたように否定した。

私は「ふ~ん、海はもっと大きいがんか。見て見ていのう。」たったこれだけの事である。

それも覚えているイメージを文章に起こすとこうなるんであって、実際の会話はもう少し違ったニュアンスであったと思う。これを書きながらそう思っている。

それにしてもこんな長くも無い鉄橋を渡る間の事を、覚えている事が不思議でならない。

もう二度と確かめることが出来なくなってから、長い時間が過ぎたが、私の宝物とも言える風景の一つである。

category: 風 景

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道光高原晩秋  

 

11月1日に道光高原の越後ゴルフ倶楽部で遊んできた。土、日が休日で無い友人と3人でのプレイであった。今回の使用テイーはレギュラーテイー、6737ヤードである。暖かいと言うより暑いくらいで、半袖シャツを持って来なかった事を後悔したくらいである。

 

クラブハウスとアウトコース。左に展望台、右奥の山は巻機山の連山。

 

鳥屋ガ峰と道光高原の広がり。遠くの原は、高原野菜の畑。

 

ランダムな写真の並べ方だが、9番ホールの途中です。

 

これは14番ホールへ向かう途中。赤いコーンの下は避難所が有る。

 

16番ホールの景色です。権現堂山と右奥に未丈ガ岳、山を越えれば只見川。奥只見ダム、大鳥ダム、田子倉ダムが連なってあります。映画ホワイトアウトのモデルとなったダム群です。

 

15番ホール、通称浮島コース。U君のスプーンでのテイショット。本日の使用テイーからは330ヤードパー4。、220ヤード地点から急激に下り、池に囲まれたグリーンになります。

 

5番ホールの途中からです。鳥屋ガ峰と遠くに守門岳が見えます。

 

7番ホールです。谷越えの396ヤードパー4です。難しいですよ。

 

ここのゴルフ場のグリーンの芝目は、この権現堂山に向かっています。

 

左のバンカーとグリーンは3番ホールです。山帽子の葉が紅いですね。

 

5番ホールのグリーンです。上に茶屋が有ります。茶屋の奥は畑です。

 

16番からの景色です。左~荒沢岳、魚沼駒ケ岳、中ノ岳、八海山です。

 

守門岳と道光高原の晩秋の景色です。12月になれば雪が降ります。

 

7番のテイショットを終えてカートに向かうSくんとU君。大事な仲間です。

この日はカメラにばかり気をとられて、ゲームは散々な目に会いました。ギブミーチョコレートじゃ無い。チョコレートを何枚も取られて終いました。

この二人侮れないのです。U君がハンデ7、S君がハンデ9なのです。私が88も叩いてしまっては勝負になりません。

無念さに涙は流れませんでしたが、冬の訪れを前に、楽しい一日でした。

 

             このシリーズまだ続く予感!   

category: 風 景

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農業とはなんだ  

唐突ですが、最近の発掘調査で稲の栽培は弥生時代からではなく、縄文後期にまで遡ると何かで読んだ覚えが有る。そうであっても無くても、日本人とお米とは随分と長い関わりで有る事を再認識させられた話であった。

 

律令が国是の時代に公家の私領である荘園が出来た。公家による政治の腐敗である。
当時の自作農民は開墾して田畑を増やしても、有力な公家に献上しその庇護の下で荘園の支配権を許される事しか出来なかったのである。(武士の誕生)


保元の乱以降公家の無力化、武士の政治への進出が起き、やがて平氏による武家政治がはじまった。(荘園の壊滅と武家による政治への進出、農地の支配)
農地の相続争いなどの平氏の調停能力に不満が生じ、源平合戦の結果、頼朝による鎌倉政権が誕生する。(鎌倉幕府の誕生)

 

武家=自作農民であるから、自作農民による政権が誕生したとも言える。

 

随分すっ飛ばした書き方だが、これは論文でもレポートでも無く只のお気楽ブログで有るから仕方が無い。

 

話は随分と端折るが、応仁の乱以後約百年に渡る戦国時代に「下剋上」「兵農分離」が進み、日本は信長により近世への扉を開く事になり、秀吉が継承発展させ、家康の手によりその後250年の安定した世を作り出すことに成功する。
家康は江戸幕府を開くにあたり、頼朝の鎌倉幕府を大いに参考にしたと言われている。ただそれを機能させる官僚機構は、三河の小大名だった頃と同じ「老中」「若年寄」などの名称を使用したものらしい。
江戸政権では「士農工商」と身分を分けたように、兵と農を完全に分離させた政権であった。但し農は自作農を基本としたのであった。

 

日本各地に残る大地主(戦後の農地改革で没落したが)などは明治になってから出来あがったもので、年貢(税)が物納から金納に変わった影響なのである。現金を持たない当時の農民にとっては青天の霹靂そのものであったろう。
農民は税を納めるに当たり、土地を担保に商人から金を借りて収めたのである。不作の年には借金が返せなくなり、また借りるが続けば農地は貸し方の所に集まり、大地主の誕生となったのである。「出羽の本間か本間の出羽か」と戯れ歌にも歌われた本間家などはその象徴であろう。

 

話は飛ぶが明治の顕官大久保利光のことである。

或る日京都の嵐山から、内務卿である大久保の所へ面会者があった。大久保は人の話を良く聞く人で、事情の許す限り面会者の話を聞いたそうである。その嵐山から来た人によると「徳川様の世では嵐山の景観を保つに手当てを厚くしてもらっていたが、最近はそれが無いので山が荒れて困る。」と言うような事であったらしい。

 

大久保は大いに恥入り、倒れるとも思えぬあの徳川幕府を倒しはしたが、それは政治的停滞を招いた幕府を倒し、日本を富国強兵にし、西洋列強に侮られないようにするためであった。幕府がそのような細やかな政治、行政を行っていたとは思い至らなかった。と言い嵐山の景観保全に金を出すようにしたのだそうである。

 

日本の景観とは、古代から延々と受け継がれた水田農業が無ければ今の形では無かったであろう。日本人の誰もが「ふるさと」に抱くイメージとは白砂青松、里山水田ではないだろうか。実際は変化しつつ在るとは言え、我々の心の中にある物はしっとりとした其れであろう。

 

白砂青松は日本の自然には元々無かった景観である。先人が一本一本砂の中に植えて行った物なのである。何の為と言えば、それは田畑を守るためにである。里山もそうなのである。人にとって有用な木を残し、間引き、林の中を掃き清めるが如く葉を集め、堆肥を作り田畑に施す。燃料にする薪や炭は山を割り振り、自然のサイクルに従い順次利用して行ったのである。

 

驚いた事にそのような暮らしは私が子供の頃まで、もっと言えば減反政策が始まるまで延々と続いていたのである。

都会地に近い農業はそれの求めに応じて変化して行ったのであろうが、現在中山間地と言われる所は少なくともそうであったのである。

 

ここまで書いてきて私はハタと困っている。この先を書けば生な時事を引っ張り出さねばならない。一度引っ張り出してしまえば歯止めが利かなくなる。一度参加を表明すれば後戻りのでき無いTPPの様なものである。それでもTPPは国民合意の上各界の要求を纏め、交渉のテーブルに着くのであれば納得が出来る。

ほら、すぐにこう言う事を書いてしまうのだ。こう言う事は分析能力の高い高学歴者が買って出るもので、私の様な低学歴者が俗な意見を述べるものではない。

 

            長くなったのでこれで終わる。

 

 

category: 雑 感

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新緑の道光高原  

 

秋枯れの写真ばかりアップするのに少々飽きてしまった。それで今年の新緑の頃を見て頂こうと思います。

残雪の残る山の名は守門岳、五月下旬の様子です。撮影場所は道光高原、実はゴルフ場からです。

道光高原 越後ゴルフ倶楽部バック(黒)7210ヤードのチャンピオンコースです。レギュラー(青)6737ヤード、フロント(白)6375ヤード、レディース(赤)5121ヤードと、それぞれに距離があります。ゴルフがお好きな方はいらして下さい。別にゴルフ場のまわし者では無いですが。(^^)

 

 

ブナの木の新緑が柔らかそうな黄緑色です。雪の降らない地方では五月下旬は初夏なんでしょうが、雪国ではまだまだ春なのです。

 

     

 10番ホールのテイグランド        9番ホールのテイグランド

 

OUTの名物ホール8番ショート。バックテイ234ヤード谷越えです。

権現堂山に向かって打つ豪快なショートホールの打ち下ろしです。

 

同じく8番のフロントテイ。181ヤードです。油断すると痛い目に・・(^^ゞ

 

INコースのパター練習場からのクラブハウスです。

たしかゴルフをした覚えもあり、写真はこれくらいしか無いような。(^.^)

 

ゴルフ場の近くのお蕎麦屋さんです。この近在で一番美味しいと思っています。ここの蕎麦が食べたくて、シーズン中東京から通ってくるお客さんも何人かいます。ゴルフは、蕎麦を食べにくる口実なんだそうです。へぎ蕎麦が特に良いですね。天麩羅も春の山菜が絶品です。いえ私など滅多に行けませんが評判の店です。

 

私が行ける店はこっちです。長岡市(旧川口町)の消防署の隣りです。

野菜味噌ラーメンと韮モツラーメンそれにアサリバターラーメンが お気に入りです。

 

            今の季節に帰って、まだ続くかな。                                                                                     

category: 風 景

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古い道  

 

ブナの根元から清水が湧いている。板清水の名がある。この泉の周りは現在水田になっているが、戦後の食糧難解決の一環として行われた開墾事業で生まれたものである。その開墾で縄文遺跡が見つかっている。石器なども各種の物が発見されている。この付近には他に泉と呼べるほどの清水は湧いていないから、この板清水を頼りにこの付近に住みついたのであろう。

 

これが板清水である。昔と言っても私が子供の頃は、もっと鬱蒼としたブナの森であったが今は見る影も無い。湧水の勢いも少ない。

 

 

湧水を流す水路だが、水の勢いは無い。泉に井戸側が伏せてあったから、付近の民家の雑水に引かれているのかも知れない。

 

水路の先には小高い所に小さな森がある。この森の周りや中で土器や石器が簡単に見つかる。積った落ち葉を除けるだけでも簡単に見つかる事がある。

一説に由ると、眼下の破間川を遡上する川鱒や鮭を頼りに生活を営んでいたと云うことだ。

 

水神である。いつの時代の物か知らないが、ここの水の大切さを教えてくれている。

 

傍らの杉の木に柿の木が寄り添い実を成らせている。この辺りに降る雪の深さを物語っている。

 

婆坂(ババザカ)である。コンクリート舗装こそ施したが、道の様子は昔と変わらない。この坂の途中に、行き倒れた婆を葬ったことから、この坂の名前が付いたのだと聞いている。

 

この辺りに婆の、小さな石塔が有ったと記憶していたが見当たらなかった。ここの森ももっと深かったようだが、森の外が透けて見える。

 

坂を登りきるとこんな物が有る。村の入り口を守る神や仏たちである。

ここまで来た道は古い道で坂を下りきれば、会津へと続く街道に出合う。先に進めば松坂峠を越えて蒲原平野へと至る。現在は所々を農作業の道として使用するくらいで、忘れ去られようとする古道である。

それでも50年位以前までは松坂峠の手前の山の中腹にある馬頭観音に、祭りともなれば着飾らせた農耕馬を連れて蒲原方面からも参詣に来ていたものだった。

 

須原スキー場の索道が見える。手前の山が城山(じょうやま)と言う。戦国期には小城が有ったと伝わっている。頂上直下に手彫りの洞窟が有り薬師如来を祀ってあったりする。上杉謙信の時代には狼煙による連絡拠点の一つであったのかも知れない。

 

                 まだ終わらない。    

 

category: 歴史よもやま話

 山の思い出  

 

実家の方へ用事に行ったら、夕日を浴びた山が良い感じであった。北斎の描く富士山を、足蹴にしてしまった様な山が内桧岳(1050m)である。

破間川水系黒又川の右岸にある山で、黒又川第二ダムの湖水の向こうになるから、登るにはボート持参で行かなければならない。

私は初夏の頃、友人と二人でこの山に登った事がある。30才以前だったと思うのだが、記録を残していないから良く分からない。

朝渡ったスノーブリッジが帰りには落ちていたり、残雪のシュルンドに吸い込まれそうになったり、滑落して滝壺に落ちようとしたり、低山の割に手強い山だった覚えがある。

後日この山に詳しいゼンマイ採りの方から、尾根筋の道がある事を教えられたが登ってはいない。

 

電線も家も邪魔なのだが、今の時を止めようとそのまま写してみた。

 

何だか薄墨をした絵のようには見えないだろうか。電線が邪魔だが。

 

何だかんだ文句を言いながら、同じ所で撮っている。ものぐさなのだ。

 

御隠居さん家の側で撮ったが、前山とのバランスが今一気に入らない。

 

ついでなので寄ってミケにあいさつをしてきた。この顔は威嚇では無い。

 

帰り道通行止めの橋の袂から写して見た。山の斜面の構造物が異様な迫力である。雪崩止めの柵なのだが、鉄の砦の様にも見えるではないか。

 

 

                 まだまだ続く

category: 山の日記

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