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2013年01月の記事一覧

真 鴨(マガモ)  

 真鴨(マガモ)は、冬鳥として日本に渡来して来ます。北海道から、南西諸島にまで渡って行くそうです。越冬中の10月末から12月頃に番いを形成し、春には雌雄が連れだって繁殖地に帰って行くそうです。

 繁殖期は4月から8月頃で、水辺に近い草地に座り周辺の草を引き寄せて浅い皿状の巣を作り、平均11個の卵を産み抱卵、育雛するそうです。

 日本でも北海道や山地で繁殖するそうですが、魚沼で夏場に見たことはありません。北アルプス上高地では、夏山登山の折などに普通に見られます。

  

 

 カルガモたちがお昼寝場所にしていた中州より、かなり下流にいたマガモさんたちです。全員集合と言っても聞かないでしょうから、なるべく集まっていたところを撮りました。

 

 

 番いも居れば、これからのも居ると思います。

 

 

 「俺についてこい」みたいのや、仲良さげに寄り添っているのも居ます。

 

 

 仲良さげに連れだっているのですが、♂の白い目は何でしょう。たんなる瞬きか。

 

 

 こちらは、プカプカ浮かんで寝ているようです。

 

 

 ほらほら、寝ている間にさようならかい。

 

 ここから7枚の♂の写真です。

 

 

    

 

 

 

    

 

 

 

    

 

 

 

 ここから4枚♀の写真です。

 

 

    

 

 

 

 

 

 鴨さんのシリーズは、一応これでお終いです。またお天気の良い日に撮影に行ければ、エントリするかも知れません。ではまたね。(^-^)

 

 おまけ

 

 カルガモさんをナンパしに来たマガモくん。ほんとかな?

 

 

 

category: 野鳥の記

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軽鴨(カルガモ)  

 軽鴨(カルガモ)は渡りを行わないので、一年中川や湖沼で見られる鴨さんです。

 魚沼の冬は雪が深くて、小河川や小さな湖沼は雪に覆われてしまいます。川下の新潟平野や一山越えて関東に移動する群れもあるかもしれませんが、大半は魚野川や信濃川などの大きな河川に集まって来るようです。

 「一山越えて」で思い出しましたが、新潟県出身のかつての大政治家田中角栄氏は、号を「越山」と称していました。

 「越山」とは戦国の昔、上杉憲政から山内上杉家の名跡と関東管領職を継いだ長尾景虎(上杉謙信)が、清水峠や三国峠を越えて関東出兵をしたことを指します。春日山城で「越山」と言えば、関東に出陣することだったのです。 

 

 

 関東や新潟平野に移動しないカルガモたちです。中洲の、ゴロゴロした石と見紛うようです。

 

    

    ズーミングすると浅瀬でも眠っています。

 

 

 所々で起きているのも居ますが、まるで歩哨のようです。

 

 

 眠たいのか、カクンと身体が揺れるのも居ます。

 

 

 これから川に入ろうとしているのも居ます。

 

 

 「なんか言った」そんな感じで振り向いてくれました。

 

 

 流れの速いザラ瀬ですが、軽々と進みます。それで軽鴨なのかな?

 

 Wikiによると、{和名は「軽の池」(奈良県橿原市大軽周辺とする説もあり)で夏季も含めて見られたカモであったことに由来すると考えられている。}だそうです。

 

 

 スイスイ進んでいたのに、途中で首を掻いています。

 

 

 痒いのも治まったようですね。ふ~と一息ついている様にも見えます。

 カルガモは雑食で植物食が多いようですが、昆虫や水生昆虫、貝類のタニシや小魚なども食べる鴨さんです。

 

category: 野鳥の記

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だるまさんが・・・転んだ  

 カワアイサの♂です。丸々とした姿が面白くて、暫らくその様子を見ていました。 

 

 

 だるまさんが・・・

 

 

 転んだ!

 

 

 もう一度!!

 

 

 だるまさんが・・・

 

 

 転んだ!!!

 

 カワアイサの画像で、勝手に遊んでおります。(^◇^)

 

 もうひとつおまけにエンヤコラ(^o^)/

 

 こちらはカルガモさんです。転げると川に落っこちそうですね。眠っていたところを、起こしてしまった様です。

category: 野鳥の記

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よう~い ドン!  

 魚野川で鴨さんを見ていると、その行動に思わずクスリとさせられることがあります。鴨さんは面白がらせようとしている分けではないのですが、ファインダーを覗きながら笑みがこぼれます。

 

    

         マガモの♀です。

 

    

           よ~い

 

    

           ドン

 

    

          速い・速い!!

 

 

 プカプカと漂いながら、眠っているマガモさんのペア。

 

 小春日和の一日は、まだまだ続きます。

 

 

category: 野鳥の記

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バシャバシャ・プルプル  

 

 バッシャ~ン

 

 

 バシャバシャ

 

 

 プルプル

 

 

 バシャバシャ

 

 

 プルプル

 

 

 バシャバシャ

 

 

 もう何がなにやら、冬の冷たい川で水浴している鴨さんで

した。きれい好きなんですね。(^◇^)

 

 

category: 野鳥の記

カワアイサは可愛いかな  

 

 中洲の先端に、カワアイサの♂が居ました。白黒さんですから良く目立ちます。

 

 

 ボサボサ頭の♀は見えません。

 

 

 魚を食べる大型の鴨です。嘴の先端は、下向きに曲がって鋭いです。

 

 

        羽毛の手入れを始めました。

 

    

     グワッと背を反らしました。ずいぶん身体

    が柔らかいですね。 

 

 

 水に潜った後の、モヒカン頭の♀が近づいてきました。

 

 

 別に逃げ出した訳じゃあ・・・。

 

 

 これは去年の物ですが、飛ぶ時は豪快に水面を駆けます。

 

 

 石の多い瀬に来ました。

 

 

 途中のプールで悠々として居ます。

 

 

 まだ先へ行くようですが、チラッとカメラの方を見ていたような気がしました。

 

 

 明日の朝は雪が多いと更新出来ないかも知れませんので、今しておきます。

 現在のところは、吹雪ですが雪の量は多くありません。さてどうなりますか楽しみ、いや思いやられます。(^◇^)

 

 

 

category: 野鳥の記

今朝は大雪  

 

 今朝、雪掻きに外に出て吃驚です。一晩で1m弱、お隣の家が見えないほど雪が積もりました。右端に写っている塀が1m20cmですが、その倍は雪が積もったようです。

 

 

 庭は、水温14~15℃の地下水をポンプアップして散水していますが、それでも消残り、片付けました。

 

 

 道路除雪車が、朝早くから出動しています。

 

 

 これは除雪用のブルドーザー、通称ドーザーと言います。雪を道路の端に押しつけて行きます。家々の玄関口に、雪を押し込まないよう操作するには熟練が必要です。

 

 

 これはロータリー除雪車、通称フライヤーと言います。ドーザーが、道路の端に押して行った雪を飛ばします。無作為に飛ばせる訳ではないので、気を使う作業です。除雪機械は2人乗車で、分担操作します。

 

    

     南天の葉にも白い雪が積もっています。

 

 

 24日に、鴨たちが居た中洲です。

 

 

 身体を丸くして眠りこけていましたが、この雪では中洲も雪に埋まったことでしょう。雪の中でも、首だけ出して眠っているのでしょうか。吹雪ですから、見に行っても見えませんね。

category: 降雪の記

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雪山と魚野川  

 

 魚野川と魚沼三山(越後三山)

 

 

 魚沼駒ケ岳(越後駒ケ岳)

 

 

 魚沼駒ケ岳と中ノ岳

 

 

 中ノ岳と御月山

 

 

 八海山

 

 

 魚野川と権現堂山(上権現堂山と下権現堂山)

 

 

 太平山

 

 

 魚野川と魚沼丘陵

 

 

 川原で眠るマガモの夫婦

 

 

 雪の河原とカルガモさん

 

 昨日(1月24日)は、コメントの中でガンダムさんに心配されるほど大雪の天気予報でしたが、午後3時過ぎ頃まで小春日和のポカポカ陽気になりました。午前中はほうっておいた仕事を片付け、ブログを1本更新して、午後1番に写真を撮りに出かけて来ました。

 今日は朝から湿った雪が降っていますが、それほど酷い降りではありません。この季節の魚沼では普通の雪の日です。

 

 

 

  

category: 風 景

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魚野川冬の鴨  

 

 カルガモさん。

 

 被写体が遠くて、35mフィルム換算で24-3360㎜のズーム

レンズをフルに使って手持ち撮影しています。

                    (光学24-840)

こんな化け物みたいな性能ですが、CanonPowerShotSX40HSというコンパクトカメラです。

 プロ機材のバズーカ砲には敵いませんが、手軽なところが気に入っています。それに一眼レフに比べれば、ウソみたいに安価ですから。

 

 

 マガモさん。

 

 薄曇りの冬の川に向けてカメラを構えていると、指先が凍えて感覚が鈍くなってきます。

 

 

 岩の上で眠るカルガモさん。

 

 

 浅瀬で採餌中のカルガモさん。

 

 

 丸々としたお尻だこと。

 

 

 マガモさんご一行様。

 

 

 冷たそうな川の水ですが平気です。

 

 

 水の中よりは岩の上の方が快適かな。

 

 

 プカプカ浮かんで寝ているし。

 

 

 親ガモ寝ても子ガモ?は元気。

 

 

 大河を前に鴨3羽みたいな。

 

 

 カルガモさんたちは、冬の薄日を浴びて川に溶け込んでしまいそうです。

 

 今回はカモさんたちの写真12枚でした。(^◇^)

 

 

category: 野鳥の記

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ダイサギ君登場  

 

 今年初めて魚野川を覗いて来ました。中洲にはカルガモがいます。

 

 

 鴨さんでも撮ろうかと思っていたら、上越線下りの貨物列車が通りました。先ほどの小さな中洲が、川の中に写っています。黒い粒々はカルガモさん達です。

 

 

 列車が通り過ぎたら、白い鳥がやって来ました。

 

 

 デルタ翼のコンコルドに似た着陸です。

 

 コンコルド?の方も多いかな。イギリスフランスが共同制作して、夢の超音速旅客機として一世を風靡したものです。

 

 こんな飛行機です。

 

 

 ダイサギ君でした。

 

 

 ほぼ、1年振りの登場です。

 

 

 君たちも1年振りだね、カルガモさん。

 

 今日は薄曇りの空に、元気の無い太陽が見えています。この薄い雲が晴れればと思うのですが、言うことを聞かないようです。まあ、雪が降っているよりは良いかと、撮影を続けました。

 

category: 野鳥の記

雪しごと  

 今冬の魚沼の雪は、昨年12月に例年より10日も早く降り出したものの、その後寒に入ってから雨が降ったりして、積雪量は今のところ平年並みかなと思っている。このまま推移してくれると良いのだが、積雪が最大になるのは2月半ばごろであり、まだ油断することは出来ない。 

 

 

 雪が小止みになると、屋根の雪下ろしをする人の姿が見えます。

 

 

 あまり雪をためないでこまめに下ろせば楽なんですが、人の都合に合わせて雪が降る訳ではないので、土日に大汗を流す事もあります。

 

 

 窓辺に雪の白さを感じて目覚めるのは気持ちが良いものですが、飛雪が窓を打つような日は暗くて寒くて起き出すのが嫌に成ります。

 

 

 どんなに天気が悪くても、下ろさなければならない雪は下ろします。 

 

 

 道路除雪の雪捨て場も随分高くなりました。

 

 

 こんな車が雪を吹き上げます。

 

 

 ハンドラッセルも大活躍です。

 

 

 南天の葉が、雪の中で赤く染まっています。

 

 

 東北旅行でお土産に買って来た「あかべこ」さん。

                  がんばんべ~~~

 

 

category: 降雪の記

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楽しいな雪遊び  

 

 雪の金魚はどこから来たの、尾っぽで泳いで来たのかな。

 

 

 車の屋根ではお餅が焼けて、ぷっくりこんと膨らんだ。

 

 

 屋根から落ちた雪のお山で、そりで遊ぶ子まだいない。

 

 

 大雪で庭には雪の島ができ、片付けないと大山に。

 

 

 そこで登場ハンドラッセル。ガリガリ押して片付けよう。

 

 

 今日も朝からご苦労さん。痩せる思いの雪遊び。。。

 

 この日は、50㎝ほどの雪が一晩で振りました。朝までに雪がやんで、青空が見えて来ました。毎日運動量は充分な筈なのに、お腹のお肉が落ちません。(^◇^)

category: 降雪の記

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信州リンゴ  

 

 ひょんなことから信州のリンゴ農家に嫁いだ人と知り合いになり、毎年暮れ近い頃にリンゴを送ってもらっている。

 知り合ったのは私ではなく家内の方であるが、リンゴの美味しさに惚れ込んで、まだ注文していないのかとせっつくのは私の方である。

 そう言えばこのリンゴは、農家の保存用の物を分けてもらっている。形が不揃いで見目麗しいとは言えないが、蜜がたっぷり入ったフジと言う種類である。ずいぶん安く送ってもらうが、申し訳ないようである。

 

 

 信州リンゴには、幼い頃の思い出がある。それは、私が小学校に上がるか上がらないかの遠い昔の出来事である。

 その当時、魚沼の山村の秋の収穫が終わるのを見計らったように、砂利道をバタバタいわせながら、信州リンゴを山ほど積んだオート三輪がやって来たのである。

 すり減った様な時々途切れる流行歌のレコードの音を響かせながら、「信州リンゴ、信州リンゴでございます。今年もご当地の皆様に信州リンゴをお届けにやって参りました。現金でもお米でも、ご都合のよろしい方でお買い求めくださいませ。」と拡声器でお客を誘うのである。その声を聞くと、収穫したばかりの米を1升2升と携えてリンゴを買うのである。そんな光景が良く見られたものであった。

 

 或る年の秋のこと、例によってバタバタと信州リンゴ売りがやって来た。真っ黒になって友達と遊んでいた私は、「信州リンゴが来たぜ」と言いながら家に走って行った。家はガランとして誰もいなかった。そう言えば今日は親戚の家に行くと言っていたなあと、ぼんやりと思い出した。

 今日買わないと信州リンゴを食えないし、としばらく考えた後、母が買う時に使う米袋をみつけ出し、升で計った米を1升入れて、「そう言えば少し余計に入れるもんだと言ってたな」と思い出し、余計目に入れた米袋を担いでリンゴを買いに走った。

 リンゴ売りの若い衆に、「坊主、家の人に頼まれてきたんか。」と言われて「うん。」と頷いた。頭を撫でられながら、「おまけしておいたからな。」と米を空けた袋いっぱいにリンゴを貰い家に帰った。初めての買い物であった。

 

 

 信州リンゴを見ると、初めて一人で買い物をした時の事を思い出す。親に黙ってリンゴを買ったことで、後で怒られるかも知れないと言う後悔の様な気持と共にである。もっとも怒られはしなかったし、「良く一人で買えたなあ」と褒められもした。

 

 

 洗ったばかりの信州リンゴを、ガブリと齧ってみた。記憶の中に残る信州リンゴには及ばないが、甘くて爽やかなリンゴの味が口の中いっぱいに広がっていった。

 

 

 今日は大した積雪ではないが、時々風が強く吹雪となる。そんな天候の中を小学生が下校して行く。あの子供たちより小さい時分の事であったなと、ほろ苦くも甘やかな想いが胸をよぎっていった。

 

 

category: 食の記

記憶の中の風景「ボイとコロの話し」  

 コロとは、薪にするブナや楢など山の木を切って、切り揃えた丸太のことです。その他にも、薪にはボイと言うのもありました。コロは薪にする前に薪割りが必要ですが、ボイはそのまま使える太さの薪です。

 

 ボイは主に山村の自家用燃料ですし、コロは都会に売る換金商品でもありました。どちらも石油やガスが燃料として普及するまでは、炭と共に生活に不可欠なものでした。それに、石油やガスと違い100%自給できる燃料でもありました。

 

 ボイも囲炉裏や窯で使用するには長すぎるので、キジリ(木地莉「漢字表記は?です」ボイをストックして置くところ)で三尺ほどに切って使います。鉈で切るのですが、小学生になる前後に手伝いを始め、三年生くらいになると、その日使うボイを切り揃えるのは子供の日課となりました。刃物は砥がないと切れませんから、自然と刃物を研ぐことも覚えていったものです。

 

 農作業が一段落して秋も深まると山でボイを切り、一束の径を尺二寸くらいにして捩じり木(タムシバなどの粘りがあり折れにくい木)で束ねた物を、雪崩で流されない小尾根の平坦なところを選んで積み上げて置きます。

 ボイを積み上げる前後に二本づつ杭を立て、崩れないように積む途中でも捩じり木で絞ります。積み上げ終わると上部も捩じり木で絞って、萱で簡単な屋根を葺き雪の季節に備えて置きます。それをボイ荷(ぼいにょ)と言い、翌年一年間の燃料にしました。そういうボイ荷が山のあちらこちに見える風景も、今では記憶の中だけの風景となりました。

 

 雪国の春は遅いのですが、まだマンサクの花も咲かない早春の頃に、前年山に積んで置いたボイを運び出します。山の雪が雪崩れるのが治まると、まずボイを山から滑り落とす道を造ります。大昔から変わらず続けて来た作業ですから、山の何処が割り当てられていてもスムーズに作業は進みます。

 書き遅れましたが、山の木は何処を切っても良いという物ではなく、年ごとに家々に割り当てられます。そうやって、一定のサイクルで山の木を切っていくのです。それをボイ山と言います。

 

 持ち山は個人の、割り山(家々に代々割り当てられている山)や木炭を焼くために貸し出す山は、また別のルールで運営されていました。それも今では有名無実になっています。振り返って見れば、五十年ほど以前までの事でしかありません。こんな事も忘れ去られようとしていますし、もうその頃までの山村の生活のシステムも技術も絶えました。

 

 ボイを滑り落として山から出すことを、ボイ落としと言います。急斜面に造ったトヨ状の雪道を、滑り板(名前を失念)を使って次々に落として行きます。と言っても容易ではなく、山の様なボイを引っ張って道に乗せ、加速が付くまで引っ張り横っ跳びに逃げるのです。

 スムーズに山裾まで滑って行けばいいんですが、なかなかそうは行きません。途中でひっくり返ったりつかえたリ、その度に山を駆け下りまた登って来るのです。滑り板の回収も一仕事です。

 

 そう言う仕事は子供は何の役にも立たないのですが、今度は連れて行ってやると言われると、ボイ落としの季節が待ちどうしいものでした。

 沢一つ向こうの山で仕事をしている大人に褒められたり、山でメンツ(メンパとも言い曲げ物の容器)に詰めた弁当を食べるのも嬉しいことでした。家に帰れば母に労らわれ、近所の遊び仲間に、鼻高々で自慢できるのも嬉しいことでした。それが一番だったかのも知れません。

 

 山裾まで落としたボイは、橇に乗せて家まで運びます。急な下り坂ではブレーキに、平坦なところや上り坂では後押しです。子供の力ですから役に立つと言うより、順々に仕事を覚えて行ってくれるのが嬉しかったのでしょう。父が夕飯の時に大袈裟に褒めてくれ、上機嫌だった事を覚えています。

 家に運んだボイは、庭の片隅にボイ荷に積み上げて置きます。そこから小出しにキジリに運び、燃料として使いました。今では見る事も無くなった山村の風景の一つです。

 

 この記憶の中の風景は、以前紹介した馬頭観音のお堂がある村の昔の暮しの風景です。

 ボイの話で終わってしまいました。コロのことは後日紹介させてもらおうと思います。

 

 

 路傍に佇むお地蔵さま。(本文と関係はありません) 

 

 

category: 歴史よもやま話

カラスは山へ・・・だろ  

 

 高い木の上に、カラスの巣が残っています。何度も見えなくなるほど雪が積もったんですが、壊れてはいない様です。木の枝や針金のハンガーなどが材料ですが、頑丈に作ってあるものです。どこかの国の、橋やデパートとは随分違うようです。

 そう言えば最近もエアロビクスでビル全体が揺れて、一時避難したとかニュースになっていました。その他にも、完成したばかりのスタジアムの屋根が落下したとか、枚挙にいとまがありません。

日本でも、トンネルの天井が落下した事故がありましたから、笑ってばかりも居られませんが。話が逸れました。カラスのことでした。

 

 

 去年の初夏の頃巣立った若いカラスたちが、高圧線の鉄塔を繋ぐワイヤーの上で整列を始めました。夕方近くなると、山の塒に帰る前にこういう光景をよく見ます。早く付いた者が遅れて来る者を待っている様な、序列を決めている様な光景です。

 

 

 カメラを構えている間に、次々とカラスが増えています。

 

 

 成鳥は此処には止まらず、一直線に塒に向かいます。塒は、山にある大きな杉林の密集した枝の中です。

 

 

 高い所は寒いだろうに、律儀に群れが揃うのを待っています。嫌われることが多いカラスですが、こんな光景を見ていると可愛くさえ思えます。

 

 

 遅れている仲間を、置いて行こうとはしません。じっと仲間が来る方向を見ています。なかには、そうでないのも居るようですね。

 

 

 

category: 野鳥の記

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雪遊び  

 

 兄と妹かな、雪の小山で遊んでいます。

 

 

 お父さんも上って来ました。あれ、女の子は?

 

 

 女の子が、何かを押して上って来ます。

 

 

 橇で遊んでいたのですね。

 

 

 今度はお兄さんが滑ります。お父さんと兄と妹が、仲良く

橇で遊んでいるのです。

 

 雪が降ります、冷たい雪が。それでも、ほのぼのとした暖

かい光景でした。

category: 風 景

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成人の日と賽の神行事  

 今日は成人の日ですね。成人になられた皆様、ここまで育て上げられた保護者の皆様、おめでとうございます。

 私の住む魚沼市では、成人式は四月二十九日の昭和の日に行います。今頃だと積雪が多く、雪の降る日も多くて、せっかくの晴れ着を汚してしまいます。合併以前は各町村の事情によって其々でしたが、合併後は前述の通りです。

 

 

 

 え~と、今日は私の地域では賽の神の行事がありました。お正月飾りやお札を燃やして今年の豊作を祈願し、合わせて今年一年間の無病息災を祈願する行事です。昔は小正月の十五日の行事でしたが、現在は成人の日の祝日に合わせて行っているところが多くなりました。

 生憎の雪模様になりましたが、行事の様子を撮影して来ました。今日は雪の降る地方が多いということですが、事故の無い日でありますように、合わせて祈願しておきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 賽の神の炎で焼いた食べ物を食べると病気が逃げて行くと云われ、スルメや餅を焼いています。お神酒も配られて、冷たいお酒が胃の腑に転がり落ちて行きます。

 豊穣のお祭りでもありますので、地域によっては萱で社を造り正月飾りやお札を積み上げ、社の中には豊穣の神様のシンボルの男性の性器をリアルに雪で型どったものを鎮座させて、皆で拝んでから火入れを行うところもあります。

 残念ながら此処では簡略な儀式になりましたが、今年の豊作と無病息災は間違いないと思います。このブログの写真を見られた方も、一年間無病息災であることを祈り上げます。

 

category: 伝統行事

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冬晴れの朝の光景  

 昨日の朝は大雪でしたが、そのあと寒中なのに雨に変わりました。夜に入ると冷え込んで、そして12日の朝は冬晴れの青空になりました。道路の雪は凍み付いて、歩くとミシミシと音がします。木々に積った雪も凍み付いて、朝日にキラキラと輝き始めました。

 

 

 大きな欅の梢に凍み付いた雪も、朝日に輝き始めました。

 

 

 紅葉の木が、白葉の木に変っています。柔らかそうに見え

る雪ですが、凍み付いてカチカチです。

 

 

 アパートメントの屋上には、降り積もった雪がそっくり残っています。庭の木々の雪も、輝き始めています。

 

 

 桜の木が雪化粧を施して、梢を空に伸ばしています。そんな景色を、電線が5分割にしています。

 

 

 私のイチゴの木に、雪が纏わり付いています。花が咲き切らないうちに雪が来たので、蕾は腐ってしまいました。

 

 

 松の木が、大きな綿帽子を被っています。お嫁に行く積りなんでしょうか。でもこの木は雄松だしな。

 

 

 青い空に、白雪白松がむっくりと起き上がって来ました。

この青空も、午後には曇ってしまいましたが。

 

 

 

category: 降雪の記

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この本から「三村郷土読本」  

 

 麗々しい文字が並び、厳めしささえ感じる表紙です。これは、昭和十三年に発行された社会科副読本の様なものです。はしがきによると、尋常科第五学年以上の小学生児童並びに青年学校生徒用に作られたものです。

 表紙の三村とは、新潟県北魚沼郡にかって存在した須原村、上条村、入広瀬村の三つの村のことです。写真の読本は、昭和六十一年に守門村商工会青年部の手によって、復刻されたものです。村名が色々出て来て煩わしいですが、守門村は昭和三十一年に須原村と上条村が合併して出来た村です。現在は三村とも、魚沼市に含まれます。

 

 

 表紙と中扉を開くと、写真のような地図が載っています。白抜きされている地域が、須原、上条、入広瀬の三村です。地図左の広瀬村と薮神村を加えてこの地域を呼ぶ場合は、広瀬郷と言いました。遥か昔の戦国時代には、南魚沼郡上田郷の坂戸山に城を構えた上田長尾氏の広瀬衆として一翼を担っていたようです。

 話がそれました。この読本は第一課「我らが郷土」から第二十二課「あいに遭難した人の話」まで、三村の成り立ち、山や川、行事、輩出した人物、神社仏閣、山仕事、伝説等々が、過不足無く記述されています。

漢字が多く、旧漢字旧仮名づかいなので、時に読みつかえることもありました。本当にこれが、小学五年から中学ニ年までの子供の副読本なのと思いました。記述が丁寧なので分かりにくくは無かったです。

 

 今回は、この中から第九課行事三題の内「鳥追い」を紹介します。

 

 地方には色々の風習があり、行事がある。行事は大てい古い歴史をもつもので、奥床しいものである。今もなほ私達の地方に行われている鳥追・彼岸の迎ひ火・菖蒲たたきなども、其の行事の一つである。

   

  一、鳥  追

 

 鳥追は農作物をまもり、豊作を祈るお祭りの行事で、今では一月おくれのニ月十四日の夜に行われる。

 高い雪の楼を立て、広い雪の小屋を作り、(かまくら)付近の少年少女が一団となって、睦まじく餅を焼いて食べたり、勇ましく声を揃えて鳥追歌を歌ふ。鳥追歌は次の様な面白いものである。

 

  其 一

 

鳥追だ鳥追だ

どっからどう追って来た

信濃の国から追って来た

何を持って追って来た

柴をぬいて追って来た

四番鳥も五番鳥も

立ち上がりゃほ~いほい

いっちのにっくい鳥は

どうとさんぎと小雀

頭割って塩つけて

おんだわらにつっぺしこんで

佐渡ガ島へ追ってった

ほ~いほ~い

 

  其 ニ

 

山方の子供は

意地の悪い子供で

山うるしを切り込んで

あっちち ぷっちち

太郎来てもんでくれ

あんまりもんだれば

玉が一つ飛び出した

赤い金が十二ひろ

白い金が十二ひろ

太郎子に着せたれば

次郎子がうらみ

次郎子に着せたれば

太郎子がうらみ

誰にも着せないで

お寺のちっこの子に着せて

京の町へいったれば

京の町の子供が

エヘラヘンと笑った

もう一つ笑へ

目にさしばりかってくりょ

口にさしばりかってくりょ

鼻にさしばりかってくりょ

かってもかっても

ほ~いほい

 

 

 確かに子供の頃歌った覚えがあります。それも小学生のころまでで、中学生になると参加出来なかったように覚えています。

 昼間の内に雪を踏みながら高く積んで、中をくり抜いて洞を造り、一番奥に神棚を作って神様をお祀りして、夜になるのを待つのです。この洞を大勢で造るのも楽しいものでした。ガキ大将が指図して手際よく作業をして行くのですが、丈夫で立派なものが出来たものです。中には厚く藁を敷いて、その上に蓆を敷きます。

 夜になると、この日ばかりは大人は近づきません。子供たちだけの祭りだからです。それがまたなんだか偉くなったような気がして、面白かったですね。甘酒と火鉢で焼いた餅、それだけでも自分達で用意するのですから、大御馳走でした。

 今も同じように続いているのかは分かりません。子供が少なくなった上に、今は子供だけではやらせてくれそうも、やれそうも無いですから。

  

 

 

 

 

category: 蔵書から

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1月11日の朝に  

 

 1月11日、一仕事終えた後の雪模様です。遂に私の身長を

越えてしまいました。昨日までは何日か、晴れたり雨だった

りの天気で、雪も大分少なくなっていたのですが、今朝はそ

の上を行きました。大雪の朝です。

 

 1月11日にはどんな事があったかと検索したら、色々あり

ますねえ。

 

 604年(推古天皇11年12月5日)聖徳太子(厩戸皇子)が冠

     位12階の制度を制定した日です。

 

 1547年(天文15年12月20日)足利義輝が近江の国坂本で室町

      将軍家13代に就任しています。

 

 1851年 清国で太平天国の乱が勃発する。洪秀全が武装蜂起

     をしています。

 

 1877年 官営鉄道の建設、運営母体が、工部省鉄道寮から工

     部省鉄道局に改組されています。

 

 1878年 太政官布告により、伊豆諸島が静岡県から東京府に

     移管されています。

 三宅島の噴火による住民の避難

                         耳に新しいですね。

 

 1908年 アメリカ合衆国が、グランドキャニオン国定公園を

     設置しています。

 

 1930年 浜口由雄幸内閣が金輸出を解禁して、金本位制に復

     帰しています。

 ライオン宰相と言われた浜口雄幸

            内閣総理大臣です。

 

 1938年 厚生省が設置される。

 

 1964年 中国共産党の「7000人集会」が開催されて、毛沢東

     主席が大躍進政策の失敗を認め自己批判しました。

 演説する毛沢東中国共産党主席です。

 

 1973年 中華人民共和国に日本大使館を設置しています。

 

 1978年 ソ連の宇宙船「ソユーズ26号」「同27号」「サリュ

     ート6号」が、史上初めて3宇宙船によるドッキン

     に成功しています。

 

 1996年 橋本龍太郎が第82代内閣総理大臣に就任し、第1

         橋本内閣が発足しました。

 橋龍は煙草好きでした。

 

 2007年 中国が衛星攻撃実験で、自国の気象衛星をミサイル

     で破壊、大量のスペースデブリを発生させました。

 

 2006年 参議院で否決されたテロ特措法が、衆議院自民党

     公明党の与党で再議決されて可決しています。

 

 2012年 広島刑務所で中国人受刑者が脱獄事件を起こしてい

     ます。 

 

 端折って抜き書きしましたが、今日は太平天国の乱が勃発

た日でした。

 中国人民には天安門以来、第2の太平天国の乱を起こす気

失われたのか。そうでは無いと思っているのだが。

 

 ああ、そう言えば1月11日は、親が言うには無才子が生ま

た日でもありました。 (^◇^)       

 

category: 歴史よもやま話

この本を読んで「学校物語」2  

 前のエントリで、親を亡くしたり親に逸れたりした長岡藩子弟が、小千谷で浮浪児として 生きていた処まで書きました。

 小千谷の高札場に小千谷民政局は「賊徒の家族は即刻退散させよ。もしこの上隠匿候義顕れ候節は、当人は勿論村々役人迄、きっと曲事申し付くるべく候事」という布告を出していました。

 長岡藩に連なる者は、婦女子、子供と言えども匿えば罪になるため、可哀相に思っても何も出来ない状況で、なおさら子供たちが困窮していたのです。そうは言っても、例外は沢山あった事だと思いますが。

 

 「この歳五月戦の始まるや、白刃を提げて弾雨の下に立ち、固より親子相顧みるの暇なく、いわんや兄弟妻子をや、各々唯死力を尽くして戦うあるのみ。故に弾丸黒子の小城を似て、西南雄藩の大兵に抗し、一日敵手の委したる城塞は再び之を回復し、その破るるに及んでは、遠く去って会津に合し、会津また破るるや去って米沢に入る。米沢既に降る、すなわち去って仙台に至れば、仙台もまた既に降伏せり。敗残の兵を以て百里に難す。或いは老幼病弱を扶助し、肌寒を冒し、困苦を忍ぶの状、今日到底想像の及ばざるものあり。殊に婦女子の身を以て、難を未知の山中に避け、幾度か死生の間に出入りして、僅かにその夫の残骸を求め得たるが如き惨事は一にして止まらず。之を会津藩が君臣・親子一城内に籠り、流転曝露の苦もなく、唯座ながらにして暫時囲を受けたるに比すれば、我が藩士が君臣・父子・夫婦・兄弟皆相失し、半歳の間山野に曝露し、百里に寓したるの苦は、固より同日の論にあらず。今日之を想うも、実に慄然たらしむるものあり。」(本富栗林「戊辰戦争談」)

 

 本書「学校物語」の中でも引用されていましたが、短い文章の中に戦に敗れた長岡藩の惨状が凝縮しています。

 

  

 最初のエントリの陣屋のところでも登場した山本徳右衛門です。(明治三年、比呂伎と改名)

 

 戊辰戦争当時の徳右衛門は、四十一歳であったそうです。小千谷の町の世話役として、町民に信頼が厚い人でした。何か事ある度に相談を受け、新政府軍が駐屯してからは町側の代弁者として欠かせない存在でした。教養と人柄からでしょうか、軍の幹部や本営の御用掛け役人に一目置かれる存在でもあったようです。

 代々山本家は縮商を営む富裕な商家でしたが、徳右衛門の代で縮商をやめています。多くの家作や土地を持っていて、裕福なのは変らなかったようです。ただ、妻に先立たれ一人息子を亡くして、家庭的には不幸な人でした。その悲しみから立ち直り、前述した通りの毎日を送っていました。

 

 この山本徳右衛門が、浮浪児と化した長岡藩子弟に手を差し伸ばしたのです。子供とは言え新政府の罪人ですから最初はこっそりと、この子供たちに食を与えるところから始めました。握り飯を運んでやるところから始めたそうですが、そうなると、食を心配しなくて済むようになった子供たちも厳しい侍の躾を思い出してか、町の人への迷惑がピタリと止んだそうです。

 

 

 徳右衛門の瞼には、寺の床下や無人の祠にうずくまっていた野良犬のような子供たちの姿が、鮮烈に焼きついていたそうです。

 (戦争の怨念を、無抵抗の女子供の類にまで及ぼして報復するというのでは、源平時代の戦と何の変わりがあろう。とても天朝様の政とは思えない。直訴すればどんな罰をうけるか分からないが、悲惨な境遇にある子供たちを打ち捨てておくのは、人倫の道にもとる)と徳右衛門は腹をくくったのです。

 (彼らには、食い物と寝場所をさえ与えれば事足りるというものではない。「規律」と「教育」が何より必要なのだ。この二要件を満たしてこそ、あたら資質ある人材が無頼の徒と化すことを妨げるのだ。)と徳右衛門の心に義憤が満ちて来たのです。その晩のうちに長文の建白書を書き上げ、追伸としてこう書いています。

「追って申し上げますが、右の小学校創営をはじめ、衣食薪油の費用に関しては、設立の御許可ありますれば、追々申し上げ奉ります。及ばずながらその必要経費の中へ、金千両を五カ年にわたって報国の寸志として上納致したく存じ賜わりますれば、幾重にも前件の次第、よろしく御理解程願い上げ奉ります。巳上。慶応四辰年八月」徳右衛門は建白書で、子供たちのための学校と宿舎を作らせてくれと嘆願して、追伸で費用は出させてくれと言っているのです。

 

 

 徳右衛門の幾重にもわたる嘆願と尽力とで、十月になって学校創営の許しが出ました。

 

 「方今至急教育両全の見込を以て、懇々切々願意の趣、之に加えて金千両也五カ年に献納致したき段、かれこれ神妙のいたりに付き聞き届け候、これより速やかに施行相成り候事 明治元年十月朔日 柏崎県知事」

 

 小千谷民政局の雪野判事に開校許可証を手渡され、徳右衛門の目は涙でいっぱいになったと言います。

 雪野判事はさらに「まだある。これはわしからだ」と言って、数枚の書付を渡してくれました。それが、上の三枚の書付の写真です。

 

一枚目 山田愛之助 今泉友三郎 木村一蔵 右今度元長岡

    降人の幼弱教育場取り建に付、御雇をもって教示方

    相勤め候事

 

二枚目 小千谷村 久保田弥三右衛門 山本徳右衛門 右者

    この度元長岡降人の幼弱教育場取り建に付、世話懸

    り申付候事

 

三枚目 郷元 東徳右衛門 同立添 半右衛門 同 清之助

    右はこの度長岡降人の幼弱教育場取り建に付、久保

    田弥三右衛門 山本徳右衛門へ世話懸り申付候条、

    その役前に於いても万端申談世話致すべく候

 

 まさに至れり尽くせりの任命書であったと、この本の著者

も書いています。

          

 

 小千谷の古刹五智院です。この寺で振徳館小千谷校が産声を上げたのです。

 振徳館の「振徳」は、山本徳右衛門が県に提出したニ通目の建白書文中にある「寛に在るという、これ振徳する所以なり」から採用したものであろう。と「学校物語」の著者は書いています。

 その校名通り、五倫の教えに基づいて、人格教育にはことに力点がおかれたということです。

 

 小千谷小学校の公認を小千谷民政局の生徒募集の布告日とすれば、「明治二年三月」その創立を柏崎県の開校許可日そすれば「明治元年十月一日」に遡ることになります。いずれにしても、わが国初の公立小学校であることに間違いない。とこの本の著者は嘆息しています。

 

 越後地方は戊辰戦争後の占領地であっただけに、行政組織の改変がめまぐるしく、さらに、県財政の逼迫もあって、小学校も山本徳右衛門預かりとなった一時期もありました。深刻な経営危機にも直面したようですが、それも山本徳右衛門の不屈の努力で耐え通しました。

そして、明治政府の学制領布で小千谷小学校となり、五智院からの歴史を今に受け継いでいます。

   

 

 山田愛之助のことは12月17日の「栃尾秋葉神社にて」の中でふれていますが、長岡藩藩校「崇徳館」の教授時代に、河合継之助も学んでいます。新政府軍との戦に反対して刀を捨て、新政府側に降った人物です。

 山本愛之助はこの学校の初日、長岡藩子弟に対して訓示しています。

 「長岡藩は戦争に敗れ、まだその処分も決定していない。御家中の多くは今、奥羽の地に在り、果していつの日に故郷に帰れるかも定かではないのだ。君たちにしても、これから両親に巡り合える者もあれば、中には、一生を独力で生き抜かねばならない者もあるだろう。各人さまざまな運命が待ちうけているが、けっしてくじけず、道を誤たず、天下のために役立つ人物に育ってもらいたい。将来どんな苦難に出合っても、この小千谷での体験を思い起こして、雄々しく立ち向かっていくのだ。それこそが諸君を救ってくれた山本徳右衛門どのへの、最大の恩返しなのである。」

  

 

 これは、五智院に学校を創学した時の生徒の名簿です。長岡藩子弟の名前が並んでいます。

 

 長岡に「国漢学校」が開設されたのは、明治二年五月一日のことです。長岡の戦後復興に当たっていた大参事小林虎三郎が、四郎丸村の昌福寺本堂を借りて、藩士の子弟四十人を集めいち早く教育を開始したものです。

 小林虎三郎と言えば米百俵の逸話が有名ですが、この時より一年後の出来事です。そして、実際に明治三年六月十五日、長岡国漢学校は坂之上町に新築されています。

 長岡にも学校が出来たということで、「振徳館」で学んでいた長岡藩子弟も、順次退校して親族に引き取られていきました。「振徳館」のその後のことは、上の方でふれています。

 

category: 蔵書から

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この本を読んで「学校物語」  

 

 1995年に恒文社から刊行された「立石 優 著 学校物語」です。著者は昭和10年中国大連に生まれ、昭和32年明治大学文学部文学科を卒業された方です。

 著者と、この本の中で語られている「小千谷」とは縁があった訳では無かったようです。著書のあとがきの中で、福屋と言うスーパーへ商談に行ったのが最初で、暖かい季節だったので印象に残らなかった。と書いています。二度目に訪れたのが真冬で、人の背を越える雪の壁をみて度肝を抜かれた。とも書いています。そのせいかどうか、福屋と取引が成立したにもかかわらず、私の足は遠のいていた。とも書かれていますので、通りすがりの人と同様だった訳です。

 そんな著者が、なにゆえ大した縁も無い土地の学校に興味をもたれたかと言うと、当時の恒文社出版局次長の大月儀一氏との縁からだったようです。出版の打ち合わせで氏と会っていた時に、話のはずみで、「小千谷には日本で一番古い小学校がありますよ」ともらされたことがあった。とあとがきの中で書かれています。(大月氏は小千谷の出身です)

 

 では、その学校とは如何なる物であったのでしょう。

 その前に、小千谷(おぢや)と言う所は如何なる所であったのでしょう。本書でも引用されていますが、江戸時代の文人鈴木牧之(越後魚沼郡塩沢の人)は自著北越雪譜の中で魚沼郡をこう紹介しています。

 「越後の地勢は、西北は大海に対して陽気なり、東南は高山連なりて陰気なり。ゆえに西北の郡村は雪浅く、東南の諸邑は雪ふかし。これ陰陽の前後したるに似たリ。我が住む魚沼郡は東南の陰地にして、巻機山、苗場山、八海山、金城山、駒ケ嶽、兎ヶ岳、浅草山等の高山その余他国に聞えざる山波涛の如く東南に連なり、大小の河々も縦横をなし、陰気充満して雪深き山間の村落なれば雪の深さをしるべし。」

 当時の小千谷村(現小千谷市)は、魚沼郡に属していました。

 信濃川沿いに階段状にせり上がりながら集落を形成する小千谷は、江戸時代に小千谷縮の集散地として栄え「北越の一市会、商家鱗次して百物備わらざることなし」と山東京山(京伝の弟)を嘆じさせるほどの賑わいをみせていました。

 

 日本で一番古い小学校とは、小千谷小学校のことです。殷賑の土地柄だったとは言え、どうして雪深い魚沼の一邑にそんな物が出来たのでしょうか。この本は「学校物語」の著者が、そのことを不思議に思い解いていったものとも言えます。著者はこれを書き上げる以前、小千谷と境を接する長岡藩家老河合継之助の片腕とも言うべき村松忠治右衛門を題材にした「河合継之助を支えた男」を上梓しています。その事も、この本を書く動機となっているようです。

 

 享保九年(1724)小千谷は高田藩領から天領に移行され、会津藩預かり所となりましたが、その事によって幕末に戊辰戦争の波涛に飲み込まれて行きます。

 慶応四年(1868)正月十二日、会津代官は久保田弥三右衛門、西脇吉郎右衛門、野口保吉郎、山本徳右衛門ら小千谷の有力者を陣屋に呼び出し、酒肴でもてなしました。そして、京の情勢が逼迫していることを理由にして、軍用金の調達を命じました。町民側は、西脇家(詩人の西脇順三郎生家)の八百両を筆頭に、総計三千四百両の賦課を受け入れることになりました。

 

 鳥羽伏見で幕府軍が大敗した飛報が小千谷に入ったのが、一月十六日のことでありました。四月に入ると情勢は急を告げ、江戸城の無血開城がありました。旧幕府艦隊は江戸湾を離れて松島湾に本拠を移し、幕府軍の残党は関東各地を転戦し、彰義隊は上野の山に立て籠もったが惨敗して四散しました。

 徳川慶喜は徹底した恭順に努め、肩透かしを食った格好の新政府は、武力革命の矛先を会津藩に向けました。会津藩にとっては、戦争以外の選択肢は無かったのです。

 

 四月二十九日に、古屋作佐衛門率いる旧幕府歩兵隊四百ニ十人が小千谷に入って来ました。民家に止宿した歩兵隊は、火消人足や博徒などで編成された洋式部隊で、戦闘には強かったらしいですが兵の質が悪くて嫌われたそうです。小千谷で乱暴狼藉を働いた記録は無いようですが、会津藩兵が駐屯していたからだと思われます。

 

 新政府は、北越征討軍を山道口と海道口の二手に分けて越後攻略を目指しましたが、最大の目標は長岡藩でした。

 長岡藩牧野候七万四千石は、三河以来の譜代大名で藩主は歴代老中など幕閣の要職に就いてきた家です。激動のこの時期に長岡藩の舵取りをしていたのが、抜擢家老の河合継之助でした。継之助はここに至るまでに藩政改革に成功して、精強な洋式軍隊を作り上げていました。そうして、奥羽越列藩同盟の執拗な勧誘に応ぜず、新政府に恭順の意を示すでもなく中立を守っていました。

 

 閏四月十六日に小千谷から七Kmほどの雪峠で、政府軍と会津藩兵、旧幕軍との激戦があり、夕刻頃には兵力の差で会津藩兵らは破れて小千谷に退却しました。しかし、寡兵では小千谷は守れないと舟で信濃川を片貝方面に下って行きました。

 

 慶応四年五月三日、長岡藩家老河合継之助と山道鎮撫軍軍監岩村精一郎との会談が、小千谷の慈眼寺で行われました。凄惨な北越戦争の幕が切って落とされた会談でした。

 岩村精一郎は当時二四歳、後年語るところによると、河合継之助がどういう人物か知らなかったと言っています。愚昧な門閣家老だと思っていたとも言っています。当時、知っていれば会談の仕様もあったのだがとも語っているそうです。不思議な物言いをする人物です。これから戦おうとする敵将の情報も知らない指揮官が存在して良いものだろうか。

 この人物は後年、司法卿だった江藤新平と不平士族が起こした佐賀の乱でも、佐賀県権令として渦中にありながら同様の失敗をしています。

 河合継之助の名は新政府の要人にもよく知られており、現に山形狂介(有朋)は、河合が小千谷へ来ると言う報告に接すると、「留めておいて帰すな」と指令を飛ばしています。河合一人を抜いておけば長岡藩はどうにでもなると踏んでいたのでしょう。その指令が届かぬうちに、岩村は河合を追い返しています。

 

 長々と当時の情勢を書いて来ましたが、物事には原因が有って結果が生じます。この本「学校物語」の、日本で最初に出来た小学校も凄惨な北越戦争が無かったら出来なかったかも知れません。

 明治維新は、侍が侍の治世を否定して起した戦争でした。侍が起こした革命とも言えます。西郷隆盛は維新後に、血の流し方が足りなかった。これでは徹底した革命にはならないと嘆いたそうですが、流す方にしたらたまった物ではありません。それが、戦争の意義や意識がしっかりとした大人ならともかく、戦争の後には傷つけられた山河と親を無くした子供や子供を無くした親が残ります。

 北越戦争での長岡藩の子弟もそうでした。侍の子と言っても幼い子供が親を無くしてしまったら、荒野をさすらうしかありません。生きるためなら盗みもするでしょう。大勢の長岡藩士の子弟たちが小千谷に流れ込んで来て、店先の物を掠め取ったりして寺の床下などで寝起きをしていたと言います。

 

 長くなってしまいました。後日続きを書きます。           

 

 

 

 

 

 

category: 蔵書から

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友人宅のにゃん子たち  

 

 

 

 お正月なもので、2日にお年始回りに行って来ました。久しぶりに生家のある集落に行ったのですが、雪が多く写真の様にどこの家も雪に埋もれていました。

 

 帰りに友人宅に寄ったら、にゃん子たちが迎えてくれました。この子たちには、お年玉は要らないので少しほっとしました。

 

 誰だっけこの人・・・見覚えはあるけど。

 

 

 あ、知ってる人だ・・・おみやげは?

 

 

 ふん、わたしが食べられる物はないようね。

 

 

 もう少し遊んで・・・帰っちゃうの。

 

 

 今度は食べられるおみやげを持ってきて。・・・はい。

 

 なんて会話は、有ったような無かったような。半年ぶりに会ったんですが、二猫とも覚えていてくれました。

 はて、そう言えば友人とは何を話していたんだっけ

          ・・・・・・まあいいか。(^◇^)

 

 

category: 生き物の記

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よくふるなぁ  

 

 昨日5日は良く晴れました。気温はあまり上がらなかったのですが、お日様の力は偉大です。道路の傍の雪が溶け始めています。久しぶりのお天気に、雀も餌探しに出て来ました。この雀たちにカメラを向けたら、下に居た雀がクルリと首を回して「な~に!」と言うように見られてしまいました。

 

 

 雪国の木になるのも大変です。冬は、こんなに重たげに雪を背負わなければなりません。ご苦労様と声を掛けてやりたいほど、毎年律儀に雪と闘っています。

 

 

 雪を抱いたブナの冬芽も、心なしかふくらんできている様にも見えます。

 

 

 山桜の枝はしなやかです。雪に90度以上曲げられても折れません。もう少し曲げられると、身を震わせて雪を払い落します。負ければ折れます。

 

 

 楓の木に、白い葉が繁ったようです。雪が積もっていくのが早くて、花が咲いた様とは形容できません。風に舞う雪は桜吹雪のようでもありますが。

 

 

 吹雪いて来ると、欅の梢が白いベールに包まれて見え難くなります。この木には色々な野鳥が羽根を休めますが、これだけ吹雪くときには雪をわせる風の音しか聞えません。

 

 この雪景色の写真は1月3日の物です。今日も雪が降っていますが、フワフワと優しい雪です。

category: 降雪の記

初夢  

 新年も4日になりました。降り続いていた雪も今日は一休みして、晴天が広がる良い天気です。屋根に積った雪を下ろす人の姿も見られます。

 ところで、今年の初夢は見られたでしょうか。縁起の良い夢を見られたことでしょうが、何時見た夢が初夢なのか気になったので調べてみました。

 文献に初夢が初めて出て来るのは、鎌倉時代の「山家集」だそうです。それによると、新年に関係なく節分から立春の夜に見る夢が初夢とされていました。当時の人々は、年の初めを元旦ではなく立春からと考えるのが一般的だったようです。

 江戸時代の後期には、新年2日の夜に見る夢が初夢とされるのが一般的になっていました。それまでに、大晦日の夜、元旦の夜など変遷があったようです。明治時代以降現代にかけては、元旦の夜に見る夢が初夢と考える人が多いようです。

 新年に初めて見た夢でも良いように思いますが、最近初夢の話題が少ないのが少し寂しい様な気がしています。

 

 

 初夢と言ったら宝船ですね。室町時代の人も、縁起の良い

夢を見ようと枕の下に敷いて寝たそうです。悪い夢を見た時

は、絵を川に流したそうです。 

 

 

 一、富士

 

 

 ニ、鷹

 

 

 三、茄子

 

 

 四、扇

 

 

 五、煙草

 

 

 六、座頭

 

 一富士、ニ鷹、三茄子は誰でも知っているほどオーソドックスですね。駿河の国で高い順「富士のお山は日本一高い。鷹は空高く舞い上がる。初物の茄子は高価い。」とも、徳川家康が好んだ順「末広がりの美しい姿形をした富士山、家康が好んだ鷹狩り、家康が好物の茄子」とも云うそうです。

 

 四扇、五煙草、六座頭は余り聞いたことも無い様な気がします。これは、一富士、ニ鷹、三茄子に対応していて「富士と扇は末広がり、鷹と煙草の煙は高く上り運気を現わし、茄子と座頭は毛が無い怪我無い」と云う事だそうです。

 

 毎度馬鹿馬鹿しいお笑いのエントリでした。 

 

 

                          ウィキの初夢の項を参考にしました。

category: 歴史よもやま話

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雪とシクラメンの花  

 

 冬に咲く花シクラメンです。雪が降る夜でも健気に咲いて

います。いつもは玄関先の車寄せに置いてるのですが、雪の

上でモデルになってもらいました。

 和名は「豚の饅頭」と言います。これは英名のsow bread

(雌豚のパン)・・・球根が豚の餌になることから名付けら

れたものだそうです。

 和名はもう一つあります。「篝火花」と言うそうです。こ

れは「九条武子」が、篝火の様な花ね。と言ったのを聞いた

牧野富太郎博士が名付けました。両方とも、せっかくの和名

ですが滅多に用いる事が無いようです。

 

 

 雪がいっぱい降る夜は、風の助けを借りて雪が成長してゆ

きます。巨大な怪物が誕生しょうとしているのです。

 

 

 朝になると消雪パイプの有る道路にも、怪物に成り損ねた

雪の塊が島になって残っています。

 毎日飽きもせず雪が降っています。その雪を毎日、呆れな

がら片付けています。そろそろいい加減にせんかい。

 

 よほど夜中に冷え込んだのか、シクラメンが凍ってしまい

した。元に戻しておいたんだけど。

 

 

 

 

category: 降雪の記

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魚沼の辻占せんべい  

 

  お正月も3ヶ日が過ぎようとしていますが、改めまして

 新年明けましておめでとうございます。今年もよろしく

 お願いします 

 

    

 まだ松の内ですが、明日からお仕事の方もおられると思い

ます。ご苦労様です。お正月も返上で頑張っておられる方々

お疲れ様です。

 ウチの方では例年になく雪が多く、道路除雪車が正月返上

大忙しです。

 

 

 子供の時分、お正月に良く食べた「つじうらせんべい」で

す。私の親も子供のころから有ったと言っていましたから、

魚沼では随分昔から食べられていたようです。

 東京に居たころ、帰省の帰りにお土産に買って帰ると珍し

がられたものですが、ウチの方だけの物でもないようです。

 

   

 こんな形をしています。割ると中から紙片が出て来ます。

 

 

 辻占せんべいの名の通り、中から運勢を書いた紙が出て来

ます。せんべいも甘くて美味しいのですが、運勢を見るのが

楽しくて子供のころは割ってばかりいたような気がします。

 中吉も小吉も吉も入っているのですが、久しぶりに食べた

ら立て続けに大吉が出ました。何か良いことが有るか知れ

ませんね。(^◇^)

 

 

 それにしても雪が降ります。先ほど雪の様子を見に外に出

てみたら、激しい降り方でした。庭の楓の枝に積った雪が重

さでたわみ 、辻占煎餅みたいに成りかかっていました。

 

 

 

 

category: 食の記

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あけましておめでとうございます  

 

         日本国国旗日章旗

 

 

     旭日旗              軍艦旗

 

明けましておめでとうございます

 

本年が日本をとりもどす年になりますよう

                 祈念いたします

 

平成25年元旦

       無才 拝 

 

 

 

 

category: 指定なし

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