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2015年12月の記事一覧

雀の生る樹  

 明け方布団の中で寒いなと思っていたら、濡れた路面が凍結したり木の枝が凍み付いたりしていました。その代り大晦日の今日は、久しぶりの快晴です。
 窓際は、ぽかぽかとして眠くなりそうですし屋外も日当たりの良い所は暖かです。しかし日影に入ると、ピシーンとするほど寒さを感じる朝でした。


『熟睡』木の枝が凍み付いた寒い朝、雀は人の気配にも気づかないで熟睡しています。
熟睡

『目覚め』気づいてるよウルサイナ~!と言わんばかりの機嫌の悪さです。
目覚め

『身だしなみ』陽が射してくると楊枝をくわえて、身だしなみを整いています。うそっぽい?
楊枝をくわえた雀次郎

『日向ぼっこ』日当たりの良い樹に、雀が集まって来ました。
雀の日向ぼっこ

『雀の生る樹』チュンチュンと世間話に、花が咲いているようです。
雀の生る樹

 大晦日の朝に、わが家の庭の樹に居た雀たちを撮影しました。せっかく羽が有るのに、何を好んで彼らは、雪の中で越冬するのでしょう。それはともかく、魚沼の福雀も無事に年の瀬を乗り越えて、新しい年を迎えそうです。



 

 みなさま良いお年を、お迎えください。来年もよろしくお願いいたします。

category: 生き物の記

寒い朝  

 北国行で・・・朱里エイコ
 

 やはりこの冬は暖冬らしくて、雪は降っても続きません。年内に、1mの雪が積もっても不思議でも無いわが家の近辺に、まだ30㎝ほどしかありません。汚れ隠し程度の雪景色です。ただ湿った雪なので木の枝や屋根に積もった雪は、見た目よりずっと重量があります。

『寒い朝』冬休みになった小学校前の通りです。  歩く児の居ない歩道や白い雪
寒い朝

『グランドのポプラ並木』白いグランド白いポプラに 遊具の青が鮮やかに。
寒い朝2

『雪の散歩道』耳が痛いほどでは無いですが朝の散歩は寒いです。
寒い朝3

 家に帰り付くころには、汗ばむほどではありませんが身体が温まってポカポカになりました。 

category: 風 景

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三つ目の忘れ物~3「峠道~2」  

 

 現在より寒冷だったと云われる江戸時代は、何回もの大飢饉に襲われています。長期にわたる冷害や旱魃、それに水害などの異常気象や害虫の異常発生、病害、火山噴火などによる凶作で多くの死者や一村一郷全滅の危機に襲われた所もあったようです。
 宝暦年間(1753年~1757年)、東北地方を中心に被害をもたらした宝暦の飢饉(寛永、享保、天明、天保の四大飢饉に次ぐ飢饉)の際、郷里の越後刈羽郡(古名・三嶋郡)長鳥郷(現・新潟県柏崎市長鳥地区)の窮民救済に私財を投げ打ち、心を尽くした盲人が江戸に居りました。その期間は、三カ年もの長きに及んだそうです。


『ブナ林』セナカ峠には、杉が植林されブナの大木も林になって残っていました。
ブナ林

『落ち葉に埋もれた道』旧道の跡なのでしょうか。道が落ち葉に埋もれていました。
落ち葉に埋もれた道

『三つめの忘れ物』切通の峠道の上に、三つめの忘れ物がひっそりと建っていました。
三つめの忘れ物

『米山検校御礼塔』前文で紹介した盲人のことです。米山とは、名峰米山のことです。
米山検校御礼塔

『風化した御礼塔』御礼塔とは、子々孫々に至るまで御恩を忘れない。そのための記念碑で
す。文字は風化して読み難いですが、長鳥郷岩の入りの方々の心は、風化してはいないと思います。

御礼塔

『峠の道』舗装路を下れば同じ長鳥郷の大角間集落です。そこにも米山検校への御礼塔が在るは
ずです。右の落ち葉に埋もれた道は、旧道なのか作業道なのか判りません。

峠の道

 米山検校と言っても知らない方の方が多いと思います。米山は、先に紹介したように検校の位に就いた時、故郷の名峰米山にちなんで名付けたものです。検校のことは、こちらを参照してください。

 ようやく三つめの忘れ物が見つかりました。岩の入り集落で取材したままになっていた三つの忘れ物を、ようやく終えることが出来ました。
 その内に、長鳥郷にまだ二つ残っている御礼塔を訪ねたり、米山検校の生家を訪ねたりしたことを、アップしたいと思います。その中で米山検校が何物であったかを、明かしてみたいと思っています。


category: 歴史よもやま話

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雪が降る日に~2「今朝の雪」  

 さて、三つ目の忘れ物をアップしようと思ったのです。でも、白い雪の降り積む様子を記録しなけ
れば魚沼っ子の名折れとばかりに、今朝も雪の写真を撮りました。


 

『今朝の積雪』昨日から降り出した雪は、今朝までに30㎝近く積もりました。
今朝の積雪

『今朝の雪』時々青空も覗かせますが、すぐにまた雪が降ります。
今朝の雪

『今朝の雪2』樹木の雪囲いに積もった雪が雪だるまのようです。
今朝の雪2

『今朝の雪3』2mほどの高さが有る雪囲いが今冬も埋まるでしょうか。
今朝の雪3

『今朝の雪4』南天の赤い実を隠されました。
今朝の雪4

『今朝の雪5』クリスマスが過ぎれば雪のツリーは要らないのに。
今朝の雪5

『今朝の雪6』車の轍の先の山は、雪雲に覆われるのでしょうか。
今朝の雪6

『今朝の雪7』除雪車が除けた路肩の雪は、膝丈ほどもあります。
今朝の雪7

『今朝の雪8』少し遅れたけれど今冬も雪の季節になりました。
今朝の雪8

 越後魚沼は、人の居住する地域としては世界一の豪雪地帯とも言います。成る程、その通りかもし
れません。何しろ一晩で1mを超える雪が降ることも、それほど珍しいことでも無いのです。数年に
一度は、そんな雪が降り続くことがあり、そんな年は、3mから所によっては、4mを超える積雪にな
ることがあります。
 一晩で1mを超える雪が何日も降り続いたら、積雪はそんなもんでは無いだろうと思われるかもし
れません。雪に重さが無ければ、物凄い数字になるでしょう。雪は自らの重さで圧縮されますから、
降雪と積雪は違う数字になります。

category: 降雪の記

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雪が降る日に  

『雪が降る日に』
 朝から湿った大きな雪片が積ります。雪雲に覆われた師走の空は、地上との綾目もつきません。
雪が降る
 年内には、もう降らないなどと甘いことを思っていた分けではありません。でも、やっぱりな!

 

category: 降雪の記

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三つの忘れ物~3「峠道~1」  

 弘法大師の霊塩水を見た後、三つ目の忘れ物目指して峠道を登ります。狭いですが車も通れる舗装された道でしたが、忘れ物を見逃さないように歩きます。目指す峠は、セナカ峠の表示がありましたが十二木峠とも言うようです。

『杉林の道』急な上り坂を振り返る。ペースが定まらなくて、少々息が上がりました。
杉の林

『竹林』初雪の重みで折れた竹も多く見ました。植林された杉も多いが竹林も多い山です。
孟宗竹

『山道の石塔』山道の傍らに、昭和35年4月建立と刻まれた庚申塔が建っていました。
石塔

『杉並木と竹林』杉林だけだと暗い道になるが竹林が多く、わりと明るい道です。
杉と孟宗竹

『ブナと杉と竹林』ブナの巨木が現れて来ました。
ブナと杉と孟宗竹

『ブナの林』逆光に、黒々と浮かび上がるブナの巨木たちです。
ブナの林

『杉並木の道』峠に到着して、来た道を振り返ってみました。
杉並木

 ここまでは、山道の散歩記になりました。峠の様子と忘れ物は、次回にしたいと思います。急坂は、歩き始めの所だけでしたが山道歩きは疲れます。


 

category: 風 景

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三つの忘れ物~2「弘法大師の霊塩水」  

 長鳥駅に停車した電車を撮影して、ふたつめの忘れ物、弘法大師の霊塩水を探しました。踏切を渡りセナカ峠への道を少し登って、振り返ると線路の向こうの看板が目に入りました。
ふたつめの忘れ物
 弘法大師霊塩水の祠の全景です。
ふたつめの忘れ物2
 現在も、こんこんと塩水が湧き出ていると言う井戸です。
ふたつめの忘れ物3
ふたつめの忘れ物4

「弘法大師堂霊塩水祭礼」
 
『動画作者のコメント』
 昔、弘法大師が諸国を布教して柏崎の岩之入(いわのいり)に訪れた折、一軒の貧しい家­に一晩泊めてもらいました。夕飯として馳走になった塩気のない小豆粥。それを哀れみ、­一泊のお礼に錫杖で大地から塩水を噴出させました。
 この祭りはその貴重な塩を頂いた恵­みに感謝する伝統行事です。前夜祭では弘法大師堂の周りに蝋燭を雪洞に灯し雪夜を彩り­ます。
 祭り当日はご詠歌行列、寺院による参拝者への厄払い読経などがあり、会場では甘­酒のサービス、御利益豆腐・おまんじゅうなどの販売があります。
 私の好きな「永井龍雲」さんの「人の四季」に乗せてお届けします。


 

category: 文学民話伝承

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三つの忘れ物~1「長鳥駅での忘れ物」  

 信越本線の長鳥駅は、2回に渡って紹介しています。でも駅には列車も止まっていませんし、乗降客も一人もいない寂しさでした。それが気になって、もう一度峠を越えてみました。ちゃんと時刻表を見てですよ。

『14時03分』塚山トンネルを抜けて、高校生を乗せた普通列車がやって来ました。
信越線普通列車

『14時04分長鳥駅』あれ、誰も降りてこない。見逃す分けは無いんだが・・・時間か?
長鳥駅停車

 とりあえず電車が撮れたから忘れ物のひとつは、片付いたことにしようかな。実は、3つの忘れ物をしたんですが残りは、2つになりました。


 この曲を作曲した古関裕而氏は福島県の出身です。
 
 JR東日本・福島駅の発車メロディだそうですね。

category: 風 景

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豪農の館 長谷川邸  

 三波春夫さんの顕彰碑を訪ねる前に、近くの現存する民家としては、新潟県で一番古い建物と言わ
れる長谷川邸を訪ねていました。建物も豪壮ですが豪農としても鳴り響いていたようです。
 長岡市塚野山(合併前は、越路町塚野山、それ以前は、塚山村塚野山)に、その屋敷があります。
中越大震災や中越沖地震で被害がありましたが修復されて、以前の姿を取り戻しています。ただ残念
ながら開館期間が4月1日から11月30日なので、内部を見ることは出来ませんでした。


『長谷川邸表門』昔の豪族の館もかくやと思わされる、豪壮にして優美な門構えです。
長谷川邸表門

『表門左の石垣』いつの時代の石垣か判りませんが立派なものです。
表門左の石垣

『表門の右側』こちらも石垣が積まれ、その前に説明書が立てられています。
表門の右側

『表門右側の説明書』説明書を拡大してみました。
説明書き

『長谷川邸母屋』破風はありませんが大きな茅葺屋根に圧倒されます。
長谷川邸母屋

『表側左隅の濠と石垣』石垣は表側だけで、元は土居だったような気がします。
表側左隅の濠と石垣

『表側の濠右隅から表門と母屋』濠のコンクリートの土留めが不細工に見えます。
濠右隅から表門と母屋

『濠と母屋の裏側』土居が痩せてしまっていますが、昔はもっと幅広で高かったと思います。
濠と母屋の裏

『濠で見た錦鯉』お約束の錦鯉ですが水温が低くあまり動きません。
濠で見た錦鯉

『濠と蔵』裏側の濠の左隅から見た大きな蔵です。
濠と蔵

『長谷川邸裏門』蔵と蔵の間に設けられています。
長谷川邸裏門

『濠・裏の右隅』これで濠に沿って、コの字に回ったことになります。
濠・裏の右隅

『駐車場の案内看板』ここに車を止め長谷川邸を見た後、三波春夫顕彰碑へ行きました。
駐車場の案内看板

 長谷川家は幕末から明治にかけて、近郊4か村の耕地や山林の7割を所有し、180町歩余の田から、
4千俵もの小作収入があったそうです。
 屋敷は、街道に面して間口約70メートル、奥行約120メートルもの広大さです。



良かったら聴いてください。いや観てくださいかな。

                               
   

category: 風 景

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三波春夫さんの故郷  

 前回の長鳥駅と岩の入り集落から、県道11号柏崎・小国線で塚山峠を越えました。峠で「魚沼街道入り口2km」の標柱を見て、歩いてみたくなりました。でもまだ塚山で寄りたい所があり、少し未練を残しながら峠を下りました。
 
 塚山で寄りたい所の一つは此方です。三波春夫さんの顕彰碑と銅像、歌碑などが建っています。
案内看板
 三波春夫さんの銅像は、雪囲いされていて、お顔が良く撮
れませんでした。
 浪曲師だった南条文若時代に、魚沼市のわが生まれ在所に
も巡業に訪れたと聞いています。

三波春夫氏の像
 歌碑を撮るのを忘れましたが三波春夫さんのデビュー曲(昭和32年)です。
 
 「お客様は神様です」の姿勢を貫いた三波春夫さんの顕彰碑です。
顕彰碑
 故郷の風景を背に、三波春夫さんの句碑が建っていました。  俳号は北桃子(ほくとうし)三波春夫さん句碑
 読めるように拡大してみました。
句碑
 最初の案内看板にあった「昔ばなしとほたるの館」塚山活性化センターです。
塚山活性化センター
 大正12年7月19日、三島郡塚山村塚野山(その後越路町、現在長岡市塚野山)で生まれた北詰 文司(三波春夫)少年は、
近くのこんな山で遊んだんでしょうね。この山、調べていませんが城山のような気がします。

城跡
 三波春夫さんの長編歌謡浪曲の傑作だと思います。 
 

 平成13年(2001)2月初旬、都内でも大雪になりました。

 三波春夫さんは、病床で「ふるさとを見せてやろうと窓の雪」の句を詠んだ。娘の美夕紀さんが「辞世の句かしら」と問いかけると、三波は「そうかもな」と少し元気なく答え、続けて「逝く空に 桜の花が あれば佳し」とも詠んだ。(ウィキより抜粋)

 三波春夫さんは、桜の時期の同年4月14日、前立腺癌のため東京都内の病院で死去。77歳の波乱に満ちた男の生涯を閉じました。

 出征、そして4年間のシベリア抑留。元浪曲師南篠文若、そして三波春夫。
                 wikipediaの三波春夫さんの項は、ここをクリックすると開きます。

category: 風 景

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長鳥駅を後にして  

 初雪が降ったりで其方に気をとられて、長鳥駅のことは置き捨てになっていました。前回は、駅のホームへ出そうなところで終えています。今回は、その続きから始めようと思います。

『広田、柏崎方面』この先は、広田駅→北条駅→安田駅そして柏崎駅へと続きます。
広田・柏崎方面

『塚山、長岡方面』この先でトンネルを潜ると塚山駅→越後岩塚駅そして長岡駅へと続きます。
塚山・長岡方面

『駅の裏山は鳥谷城祉手前の尾根筋には、柏崎から小千谷へ抜ける道が在ったそうです。
鳥谷城祉の山

『長鳥駅前の通り』現在の街道は、県道11号柏崎・小国線。峠を越えれば塚山です。
長鳥駅前の通り

『塚山峠に立っていた旧魚沼街道入り口の表柱』
旧魚沼街道入り口の表示

『旧魚沼街道広田峠へ至る山道』三国街道と北国街道を繋ぐ重要な峠道だったようです。
旧魚沼街道へ至る山道
 魚沼街道は、上杉謙信の関東出兵の際に、刈羽郡の兵を送った軍用道の一つでもあったようです。現在は、所々跡が残るだけで消滅してしまった街道です。
 長鳥駅の在る柏崎市大字西長鳥字岩の入は、 現在は静かな山間の小集落です。しかし昔は、柏崎から海産物を魚沼方面へ運び、魚沼からは織物を運んだ道筋の集落だったようです。その頃は、物や情報が行きかう賑やかな集落だったのではと、往時に思いを巡らされました。



 
『この動画の作者kazupyon323さんのコメント』
 伝統行事を頑なに守り、移ろいゆく四季とともに生きる地区の風景を
 永井龍雲さんの曲に­乗せてお届けします。

category: 歴史よもやま話

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白鳥の湖~霙交じりの雨が降る  

 
 遠いシベリアから旅をしてきた白鳥です。霙交じりの雨が降り、撮影には最悪の日でした。画質は、褒められたものでは無いですが何とか撮れました。 (撮影12月18日)

白鳥の湖

白鳥の湖1

白鳥の湖2

白鳥の湖3

白鳥の湖4

白鳥の湖5

白鳥の湖6

 遠い北の国から飛来した白鳥の姿に、私のコメントなど不要ですね。そう思い何も書き込んでいません。皆さんがそれぞれに、感じて頂けたら嬉しいですね。

category: 野鳥の記

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雑木林の雪  

 雪が降ったくらいでストーブの前に陣取っていては、安くなったとは言え灯油代が勿体無い。それは冗談だが、雪が小止みになったのでカメラを持って出かけた。
 今にも降り出しそうな空を見上げながら傘とカメラを手に、雪の積もった雑木林の小道を歩き始める。足をとられながら、ゆっくりと行く。


『雑木林の雪』光量が足りないので絞りを開いての撮影になる。ピントが甘くなる。
雑木林の雪

『雨になった雑木林』いくらも歩かないうちに冷たい雨になる。
雨になった雑木林

『小鳥を見つけた』さえずりが喧しい林の中で、ようやく見つけたが逆光だ。
小鳥を見つけた

『赤いアズキナシの実』バラ科ナナカマド属(アズキナシ属)。この実を啄ばんでいた。
赤いアズキナシの実

『霙になった雑木林で』シワシワとした雨に霙が交じる。手袋の無い右手が冷たい。
霙になった雑木林で

『白鳥は見ていた』小道を行く左側の雑木を透かすと池。白鳥に見られていたらしい。
白鳥は見ていた

『霙の降る池で』白鳥は寒くないかや霙ふる・・・これを撮って車に戻る。
霙の降る池で

 車に戻ってエアコン付けて、暖まってから車で白鳥の見える所まで行きました。 


 原曲は「山のロザリア」カレリア風にアレンジ
 

category: 野鳥の記

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今朝の散歩は雪の中  

 昨日の初雪は、牡丹雪に変わり先ほどまで降り続いていました。まだ降りそうですが今は、雪も小止みになっています。白い風景に変ると寒さが一段と身に沁みます。

『田圃の雪』野山を埋めるほどではありません。せいぜい4寸(12㎝)くらいですね。
田圃の雪

『雪道の轍』雪道の運転は、これくらいの轍が残せないとね。
わだち

『神社の森』雪を透して見ると幻想的と言うか良く見えないと言うか・・・寒い。
神社の森

『柿の実と雪』熟柿がシャーベットになりそうですね。
柿の実

『雪が降る』湿って重い雪だから傘を持つ手が疲れるよ。
雪が降る

『雪が小止みに』このまま止んでくれたらいいな。
雪が小止みに

『駐車場の融雪』地下水を汲み上げて、雪を溶かしています。
駐車場

 朝の散歩での風景でした。どうしたことか午前中は来客が多くて、ブログの投稿をするのが昼近くになりました。雪は霙に変り、明日まで続くようです。


 

category: 降雪の記

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とうとう初雪ふってきた  

 今朝は、なかなか明るくならないので寝過すところでした。眠い目を擦りながら玄関を開けると、そこは雪国でした。なにかのパクリの様な文章ですが初雪が降っていました。雪を見たら寒くて、半分寝ていた身体が一瞬で覚醒しました。

『ヒマラヤユキノシタに降る雪』春と間違え花を咲かせていたが一瞬で冬になる。
初雪
 屋根に降る雪ズンズン積もるなよ!!
初雪1
 ダイコン菜っ葉にズンズン積もっちゃダメよ!
初雪2
 田圃の中にもズンズン積もる。まあしょうがないか。
田圃の雪
 さざんかの花を濡らして雪やふる 
山茶花

 今年は遅れていたんですが、とうとう冬眠の季節になりました。17~18日は、雪の予報が出ていました。それでも昨夜は、それほど寒くなかったから降らないと思っていました。


  

category: 降雪の記

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信越本線長鳥駅  

 長鳥駅は、新潟県柏崎市大字西長鳥字岩の入に存在するJR東日本の信越本線の駅です。この駅は、昭和18年(1943)9月1日 に、日本国有鉄道の長鳥信号場として開設され、昭和28年(1953)12月15日 に、駅に昇格し長鳥駅として開業しています。昭和62年(1987)4月1日 、国鉄分割民営化によりJR東日本の駅となりました。
 長鳥駅開業当時のこの地域は、新潟県刈羽郡北条村でしたが昭和32年に町制を施行して、北条町となりました。昭和46年に柏崎市に編入されて、今日に至っています。


『長鳥駅への露地入り口』路地右手の家のおばさんと、立ち話をしながら撮影しました。
駅への露地

『人懐っこい(=^・^=)』立ち話をしていると、おばさんを追って出て来たネコです。
ネコ

『駅昇格への説明』駅への露地の道は、通りに面した家で出し合ったことや当時の北条村長がこの集落の方だったことを聞きました。
説明

『長鳥駅舎』昭和51年3月に現駅舎が竣工して、今日の姿になりました。
駅舎

『時刻表』地区民の宝の様な駅から、時刻表などの備品が盗まれた事件が最近あったそうです。
時刻表

『ホームへの通路』落書きも無く、ゴミ一つ落ちていない清潔な通路でした。
ホームへの通路

『きっぷ・運賃入れ』こういう備品を目にすると、山間集落の無人駅を実感します。
きっぷ・運賃入れ

『ホームへの階段』昭和28年の開業から、どれ程の人がこの階段を上下したのでしょうか。
ホームへの階段

『長鳥駅ホーム』古くは歩廊と呼んだプラットホームへ出ます。
ホーム

『お金の話』
 長鳥信号所を駅に昇格させる建設工費は、680万円強と試算されました。今日換算で一億6千万円以上になります。
 この金額は、当時の国鉄駅標準のインフラ整備を基準として試算されたもので、駅機能を縮小すれば減額が可能でした。それではと地元出身の新潟鉄道管理局員の専門的な知識を借りて、設計変更案を委員会に提案しました。
 その結果地元負担金を、約230万円程度に下げられ、駅建設の運びになったと言うことです。

category: 歴史よもやま話

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古城祉散歩~5「大急ぎの下山」  

 前回の古城祉散歩では、刈羽の名峰米山へ陽が沈みそうなところで終えています。
 暗くなった山道を下るのは嫌ですが、空はまだ明るさを残しているので目の前に広がっている風景を、北条城の本丸から撮影してみました。

 天正6年(1578)、上杉謙信病没後の御館の乱で北条丹後守景広(通称鬼弥五郎)は、上杉三郎景虎を支持し上州厩橋城から越後へ進軍、長尾景勝勢と各地で戦っています。
 天正7年(1579)、魚沼の坂戸城を攻めた合戦で、長尾景勝勢の荻田主馬の槍を受けて負傷しています。結局それが致命傷となり落命しました。北条景広は長尾三郎景虎派の中心人物で、求心力を失った長尾三郎景虎派は、離反者が続出して敗北しました。
 

『柏崎の海と街』晴天なら佐渡が見えます。写真左の稜線は米山の頂へと連なります。
柏崎の海と街

『刈羽の名峰米山』優雅な山容から「越後富士」と呼ばれる標高993mの山です。  
米山

『米山16:01』米山薬師は、三河の鳳来寺薬師、日向の法華嶽薬師と並び日本三大薬師です。
米山16:01

『米山16:02』アワワ・・・急がないと本当に途中で日が暮れます。
米山16:02

『下山時に目についた藤蔓』大蛇みたい。
フジヅル

『下山を終えて目にした赤い実』本当はもっと薄暗かったですよ。
赤い実

『下山を終えて撮った米山』米山さんから雲が出た~と民謡「三階節」で歌われている米山は、泰澄大師の弟子沙弥が海を渡っていたときに、強欲な船主の元から米俵を、五輪山(今の米山)へ飛ばしたという伝説に由来します。
下山して米山14:25

 北条城には、後日搦手口から登りました。南条の毛利館跡にも一族の安田城跡にも行きました。でも越後毛利氏のことは、しばらくはお腹がいっぱいで書けないかも知れません。明日になれば気が変わるかも知れませんが、明日は永遠だしな~。とりあえず古城祉散歩は、おしまい。(;^ω^)ノ


 

category: 歴史よもやま話

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仏さまと古い山城のお話し  

  柏崎市の南条へ行く途中、なんだろうと思って立ち寄った公園の
池に、衆生に説法されている優しいお顔の仏様がおられました。
池の仏像
 立派な石に彫られていた能満寺には、行きませんでしたが鳥谷城の文字が何だか気にかかりました。
墓地公園の碑
 
 それで柏崎伝説集を調べてみました。原文のまま紹介します。

 鳥谷城 は長鳥駅 北側 の山嶺 であ る 。山本判官重頼が築 いたも のといわれ る。
戦国時代 には越後で栄えた新田から高 へ、高から上杉とかわるご とに城主も交代し、南北朝期の悲哀を象徴している山城だという 。
  西寄りの山中に、のろし台、馬の足洗池などがある 。馬の足洗池 跡は石畳にな っていて井戸が三ケ所ある 。杉の入のお寺の方から登ったも のらしい 。
 長尾 に仕え た白井長昌 がこの城 にいて北条城 の番城 の役 をしていた 。北条城が亡びて白井長昌は越後町の墓間 に行 ったという 。

 通りすがりに、ふと立ち寄ってみただけでしたが古い時代に開けた地と言うのは、油断のならない所だと思いました。

category: 歴史よもやま話

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古城址散歩~4『北条城本丸』  

 北条城城主北条高広、官途は丹後守、長尾為景、長尾晴景、長尾景虎の三代に仕えた武将です。
 天文23年(1554)、北条高広は、長尾景虎(上杉謙信)と敵対する武田晴信(武田信玄)と通じて、北条城で景虎に反旗を翻しています。すぐさま景虎の猛攻を受けて降伏し、許されています。
 永禄 6年(1563)、北条高広は、上野国厩橋(前橋)城主に任命されて、関東方面の政治や軍事を任されます。
 永禄10年(1567)、北条高広は、北条氏康に通じて再び長尾景虎に背きました。
 永禄11年(1568)長尾景虎と北条氏康との間で「越相同盟」が結ばれました。北条高広は、北条氏政の仲介で長尾景虎に帰参しています。
 天正 2年(1574)、北条高広は隠居して、家督を嫡男北条景広に譲っています。
 天正 6年(1578)「御館の乱」で北条高広は、北条景広と共に長尾三郎景虎(小田原北条氏からの養子)を支持して、長尾景勝(上田長尾氏からの養子)と戦ったが北条城を攻められて、北条景広は討死しました。北条高広は武田勝頼のもとへ落延びています。
 天正10年(1582)、武田勝頼が滅亡すると北条高広は、滝川一益に仕えていますが明智光秀の反乱で織田信長が死に、滝川一益が没落した後は、また小田原北条家に服属しています。しかし沼田城主真田昌幸の離反に対する出兵を拒否して、長尾景勝に帰順し、小田原北条方である那波顕宗を攻めました。小田原の北条氏直と北条氏邦は厩橋城を猛攻して、北条高広は耐え切れず降伏しています。


『武者溜』北条城の本丸は、幅15m長さ160mあり真ん中の少し窪んだ所は、武者溜と呼ばれています。本丸に参集した将兵が待機し、指示を仰いだ所だそうです。
武者溜

『搦手口への道』武者溜からは、搦手口の道が下りています。
搦手口道

『本丸北端が見えて来た』桜が植えられていて、春は花の宴が出来そうです。
本丸奥が見えて来た

『本丸北端の北条古城祉の石碑』
石碑

『北条城跡の説明』
北条城跡の説明

『本丸北端の大規模な空堀』深さ14m、幅10m、長さ50mの大空堀です。
大規模な空堀跡

『本丸北端から本丸南を見る』
本丸奥から本丸手前

『武者溜から本丸南を見る』
武者溜から本丸手前

『冬の陽が落ちる』米山の山稜に、冬の陽が沈もうとしています。
冬の陽が落ちそうだ

 天正十一年(1583)、北条高広は、長尾景勝(上杉景勝)と和解することができたようですが北条城と越後の本領は、景勝によって恩賞として旗下の武将に給付されていたのです。北条高広は、二度と越後に帰る事が出来ませんでした。
 天正十五年(1587)、厩橋八幡宮に納めた永代守護不入の書状を最期に、北条高広の消息は途絶えています。何時何処で亡くなったのかも不明です。

 越後毛利氏の北条氏のことは、もう書くことが有りません。ただ北条氏の一族が全て絶えた分けでは無く上杉景勝に従って、会津へ、そして米沢へと移って行った。と何かで読んだような気がします。

 まだ北条城の散歩は、終わっていません。後日、搦手口から登っていますし、本丸からの風景も撮って来ました。

category: 歴史よもやま話

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越後ゴルフ倶楽部にて~2  

 昨日は、午前中晴れ間も見えていましたがお昼前から風雨に変りました。寒さ慣れしていないので、震えるほど寒い日になりました。
 今日は一転して、朝から暖かなポカポカ陽気になりました。このブログを書き終えたらネタの供給に、出かけてこようかなと考えています。

 さて、越後ゴルフ倶楽部にての2回目です。特に目新しいことも無いのですが今回は、山と言えば魚沼三山。八海、銀山、駒ヶ岳の画像を用意しています。それに若干ですが、友人たちのプレーの様子を無断で載せています。顔は見せませんが、70台でもプレーする手強い男たちです。


『アプローチショット・OUT9番』FRONTからの367ヤードです。冬はボールが飛ばな
くて、アプローチショットが残ることが多いです。二打目が打ち上げになるのも原因です。

アプローチショット

『パット・OUT9番』カップと同じ面に打てないと、パットは難しくなります。2パットなら
問題ありませんが、ラインに集中しすぎると打つのを忘れることが有ります。距離感が大切です。

パット

『魚沼三山』28㎜の広角で取ったら山の稜線が曇り空に、溶け込んでしまいました。
魚沼三山

『八海山』まあ何とか霊峰らしさが出ているかな。0点では無いと思います。
八海山

『中ノ岳』語呂が良いので文中で銀山と呼んだ山です。写真は、限りなく0点に近いですね。
中ノ岳

『魚沼駒ヶ岳』雪が濃く見える所は、残雪と同じような形をしています。写真?0点です。
魚沼駒ヶ岳

『未丈ヶ岳』1552.9mと標高は高くありませんが両翼を均等に張った安定感が抜群です。
未丈ヶ岳

 この日、午前中なら巻機山や三国連山も見えていたのです。いや写真を撮った時間でも肉眼では、良
く見えているのです。写真は、マイナス以下で使い物になりませんでした。
 冬の晴れ間の3日間のゴルフ三昧の日よ、またあれかしと願いつつ終わります。



 

category: 風 景

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越後ゴルフ倶楽部にて~1  

 雪が降りません。まだ初雪も降りません。周囲の山々は、白く雪化粧を始めていますが里山は、晩秋の姿を留めています。昨年は、確か12月4日に雪になったように記憶しています。
 良いお天気が続くので12月8日~10日までの3日間を、市内の越後ゴルフ倶楽部でゴルフ三昧して過ごしました。3日間で4ラウンドとプロも顔負けのハードな日程を熟して、昨夜は、夢も見るのも惜しんで熟睡したようです。
 昨日プレーを終えてから周囲の風景を撮って来ました。空は高曇りになりましたが山々は、クッキリとした雪の稜線を見せています。全部は載せられませんが2回に分けて、雪国のゴルフ場の冬とゴルフ場からの雪山の風景を、紹介してみたいと思います。
 

『越後ゴルフ倶楽部クラブハウス』1番ホールのテイーグラウンド脇からです。
越後ゴルフ倶楽部クラブハウス

『雪囲いと山の雪』雪が積もるまで、メンバー3530円・ゲスト5630円で営業中です。
雪囲いと山の雪

『越後ゴルフ倶楽部1番ホール』冬営業のため、フロントテイー(6324ヤード)のプレーです。
越後ゴルフ倶楽部1番ホール

『守門岳』北方の守門岳を、2本のダケカンバの幹を額縁にしてみました。
守門岳

『権現堂山』11月30日の初冠雪の時より、随分と雪が少なくなりました。 
権現堂山

『未丈ヶ岳』山奥に聳える山らしく威風堂々としています。
未丈ヶ岳

『荒沢岳』両翼を広げた荒鷲の様な姿が好きな山です。
荒沢岳

『守門岳と9番ホール』左右、前方ともOBの左ドッグの難ホールを、友人がプレー中です。
守門岳と9番ホール

 北条城の歴史散歩を、忘れている分けでは無いのですが魚沼市の現在の風景を優先させています。友人の話によると、22日まで初雪が降らないと観測史上初だそうです。ただ、その情報の観測地点やソースのことになると、どうも定かでは無いようです。
 今朝は、雨が降りそうな空模様でしたが陽が射してきました。青空が見え始めて、今日も晴れるのかな。さすがに疲れましたので、しばらくはゴルフに行きません。多分行かないと思います。

category: 風 景

水鳥と水面に映る木立  

 冬の日がもうすぐ沈もうとしている午後4時過ぎに、信濃川の堤防の道を車で走っていて見かけた光景です。
 河川敷の池には、何時も水鳥が群れています。その水面に、拠水林の木立の影が映り込んで水鳥を隠し始めていました。
 
『水鳥と水面に映る木立』
カモのいる水面に映る木立


 

category: 風 景

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古城址散歩~3『三の丸から本丸へ』  

 永正四年(1507)、守護代長尾為景(謙信の父)は守護上杉房能の養子定実を擁して、房能に対して謀叛の兵を挙げています。この謀叛に際して、多くの国人領主が為景に加担しています。
 戦いに敗れた守護上杉房能は、関東に逃れようとするところを為景勢によって討ち取られました。この長尾為景の下剋上「永正の乱」によって、越後の戦国時代の幕が切って落とされました。
 
 その後、為景は関東管領上杉顕定の越後出兵に敗れて、一時越中に逃れましたが勢力を盛り返して、顕定の軍勢と戦い顕定を討ち取ってしまいました。長尾為景は、短期間で二度にわたる下剋上をやってのけたことになります。これによって、為景と定実による越後国の政権が誕生しました。しかし守護となった上杉定実は、名ばかりの飾り物に過ぎない存在でありました。

 さて越後毛利氏北条氏のことです。
 北条広春は北条城と安田城の城主を兼ねて、長尾為景に仕え春日山の奉行職に列しています。永正十六年(1519)栖吉の古志長尾氏に領地争いが起ると、為景は広春に調停役を命じています。

 永正十七年(1520)、守護代長尾為景は越中国守護畠山尚順の要請で、越中の神保慶宗らを討つために春日山城を出陣しています。北条広春も為景に従って越中へ出陣して行きました。

 連日の激しい合戦に、生還を帰し難いと覚悟を決めた広春は、越中の陣から妻と重臣に宛てた手紙を書いています。「もしも自分が討死したら一人も実子が居ないので、妻の意向に従って養子を立て家督を継がせよ」と言う内容でした。この広春の手紙に対して重臣たちは、意向に従い広春の妻が決めた名代を盛り立てて行くことを誓約し、その旨書状に認めて広春のもとへ送っています。

 北条広春は永正18年正月、越中平定を終えた長尾為景と越後に凱旋しています。以後も守護代長尾為景に仕えて、一向宗禁令の制札に奉行の一人として署名をするなど春日山城で重きをなしていました。
   此方を主に参考にしました。http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kitajo.html

 
『土塁の跡』三の丸での休憩を終えて、すぐに尾根上の土塁が現れました。
土塁跡

『桝形の跡』土塁の上から見た桝形(虎口)です。敵を真っ直ぐ進めない為の仕掛けです。
桝形跡

『桝形の跡から二の丸へ』切岸に付けられた道を登ります。
桝形跡から二の丸へ

『桝形の跡を上から見る』桝形の中央の土盛りが、植林されたりで大分失われています。
桝形跡上から見る

『二の丸の跡へ到着』二の丸は、幅30m長さ40mの規模があります。
二の丸跡
『二の丸の跡2』非常時の際、城主の家族が住んだ廓だと云われています。
二の丸跡2
『二の丸の跡3』下段の廓には、将兵が陣を構えていたのでしょう。
二の丸跡3

『二の丸と本丸の間の大空堀』深さ8m、幅12m、長さ40mあります。
本丸と二の丸の間の大空堀

『大空堀から本丸へ』空堀の底から本丸へと登ります。
大空堀から本丸へ

『大空堀越しに二の丸を見る』二段に構成された二の丸が往時の姿を残しています。
大空堀越しの二の丸

『本丸へ到着』幅15m、長さ150mの主郭に到着しました。
本丸へ到着

 北条広春は実子に恵まれないまま、享禄三年(1530)ごろに死去しました。広春の死後は、北条城は高広が安田城は景元が、と二人の養子が継いでいます。北条城を継いだ北条高広が戦国の武将らしくて、大変面白い男なのですが次回に譲りたいと思います。


category: 歴史よもやま話

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今日は良い天気~『魚沼三山夕景』  

 今日は良いお天気になりました。気温は10℃足らずでしたが体感温度は、かなり高めに感じました。明日も快晴の予報ですから楽しみです。
 夕方になって、思い立って魚沼三山の夕景を撮ってみました。ほんの僅かでしたが山の雪が薔薇色に染まって、美しい姿を見せてくれました。


『魚沼三山夕景』山は、左から魚沼駒ヶ岳・中ノ岳・八海山の順に並んでいます。
魚沼三山夕景

『魚沼駒ヶ岳夕景』山頂からグシガハナの間の山稜の形が好きです。
魚沼駒ヶ岳

『中ノ岳夕景』三山で一番標高が高いだけに雪も多そうです。
中ノ岳

『八海山夕景』山も酒も八海山は一味違いますな。
八海山

 よいお天気に誘われて、カメラを持って遠出をしてきました。現在ブログに連載中の北条城の搦手口から、山頂の本丸まで歩いて来ました。
 他にも越後毛利氏と安芸毛利氏発祥の地で、南条館跡と云われる佐橋神社を訪ねて来ました。それでも足りずに、米山検校の生誕地まで足を延ばしてきました。
 咸臨丸でのアメリカ行きや西郷隆盛との会談で有名な、勝麟太郎こと海舟は、米山検校の曾孫になります。いずれブログに書いてみるかも知れません。


category: 風 景

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水辺の風景、山の雪  

 西の山並みに、もうすぐ冬の太陽が沈みそうな時間です。漁に失敗し続けているダイサギは、苛立ちを抑えながら次の漁場へ向かっています。いやダイサギに、聞いた分けではありませんが。

『水辺の風景』ダイサギが歩く岸の傍で、気楽そうに眠っているカモが居る。
水辺の風景

『小魚咥えたダイサギ』目の前で、漁に成功することも有るんですけどね。
漁に成功したダイサギ

『山の雪』八海山ですが山頂は雲で見えません。撮影は、本日10時40分です。山の雪

 12月1日の水辺の風景とモノクロの方は、11月13日の撮影でした。まだ魚沼のウチの辺りは、雪は降っていませんが山は、大分下まで白くなりました。


 

category: 野鳥の記

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古城祉散歩~2『大手道は登山道だった』  

 前回の序文で、鎌倉幕府の政所別当大江広元の四男季光が姓を毛利と名乗るようになった経緯を書きました。また宝治合戦で敗れ、越後の領地に居た季光の四男経光の家系が残ったことを書いています。
 経光は、越後国刈羽郡佐橋荘と安芸国吉田荘に領地を持ち越後国刈羽郡佐橋荘の南条に居館を構えていました。後に嫡男基親に越後国刈羽郡佐橋荘を、四男時親に安芸国吉田荘を譲っています。
 越後毛利氏を継いだ基親の嫡男時元が北条に居を移して、北条(きたじょう)の姓を名乗ったとも北条城を築いたとも云われています。
 さて、それはさておき本丸に向けて登城開始です。今回はどこまで行けるでしょうか。(^◇^)

 
『大手道は登山道』ゲゲゲ!石段の急登が最初から待っていました。
登山道
 急登の石段を登り、落ち葉で埋まる大手道を登り始めたら、序文で書いた名前がありました
案内板

『北条城初代城主毛利丹後守時元公墓碑』中央の大乗院殿・・・と刻まれた墓碑は後世
                の再建ですが、左右の苔むした宝篋印塔が往時を伝えています。

毛利時元墓所(北条氏初代)
 尾根筋に付けられた大手道に戻ります。
大手道
 馬の背で物資を運んだ道でもあります。
大手道2
 お天気が良ければピクニックに丁度良い登りです。
大手道3
 枯れ枝が通せんぼをしていました。しばらく誰も通っていないようです。
大手道4

『物見櫓跡』この辺りに、西側山裾からの敵に備えて、太い丸太で三段に組み上げた櫓が在った
        そうです。丈の高い木々を刈り払えば見晴らしの良さそうな所です。

物見台跡

『空堀の跡』尾根をV字に断ち切る空堀を、堀切とも言いますが山城の防備の要の一つです。
空堀跡
 空堀を渡ると連珠塞址と書かれた表示がありました。この辺りに、砦群でも在ったのでしょうか。
連珠塞跡

『木落とし場』急坂を、丸太や岩を落として敵を撃退したのでしょうか。
木落とし場

『馬つなぎ場跡』馬で物資を運び上げた中継点。この先は人が担ぎ上げたそうです。
馬つなぎ場跡

『曲輪』この辺りの削り台地は三の丸で、武具や兵糧の倉庫や将兵の居住舎が在りました。
三の丸曲輪跡

 もうすぐ二の丸ですが少し疲れました。この辺りで休憩をして、続きは後日と致します。

category: 歴史よもやま話

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カモが泳ぐ湖  

『黄昏迫る湖に、見慣れた鴨たちが群れていた』
水面の影
 黒いシルエットに近い鴨たちと、水面に映る岸辺の影が面白かったので撮ってみました。


 

category: 野鳥の記

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古城址散歩~1『北条へ行く』  

「泣く子と地頭には適わぬ」と言う言葉があります。泣く子はともかくとして地頭は、鎌倉幕府が全国支配のため源氏の家来を各地に置いて統治した職制です。
 守護地頭の制度を確立した人物は、頼朝から京より鎌倉に招かれ政所の別当として鎌倉幕府の創設に大きな役割を果たした大江広元です。この功績で広元は、頼朝から相模国愛甲郡毛利庄を賜っています。広元がこの地を、四男季光に譲ったことから季光は毛利氏を名乗るようになりました。
 季光は北条時頼の義父であったのですが三浦泰村と結んで北条氏に反旗を翻しました。ですが宝治合戦に敗北して、一族の大半が果ててしまいました。
 当時、遠国の越後にいた季光の四男経光の家系だけが許されて残りました。同族の長井氏の尽力で越後と安芸の地頭職を安堵された経光は、後に嫡男基親に越後国刈羽郡佐橋荘を、四男時親に安芸国吉田荘を譲っています。


『信越線北条駅』12月2日、柏崎市の東南部に位置するきたじょう駅にやって来ました。
  いや電車で来た分けではありません。この駅に車を止めて、駅の正面の通りを歩いて行きます。

信越線北条駅
 
『北条城址の山』室町時代に築城されたと云われ、越後毛利氏の北条氏の居城でした。
       この川は長鳥川。下流で鯖石川に合流して、北条城の外堀として機能していました。

北条城址の山

『通りを突きあたると案内板』始めて来たから助かりましたね。
案内板

『専称寺山門』上杉氏が会津へ移封となり、それに伴って廃城となった北条城の大手門を移築
   した物です。豆ノ木御門とも呼ばれていたそうです。この寺は、北条氏歴代の菩提寺でした。

専称寺山門

『登山道(大手道)』大手門が何処に在ったのか確認できないうちに、溜息が出る様な急登が
待っていました。この道を、当時は馬で物資を運び上げたそうですよ。

登山道(大手道)

 筋肉痛で、パソコンを前に座っているのも辛いです。(・´з`・)ま、それ程でもありませんが、この話の続きは後日とさせていただきます。

category: 歴史よもやま話

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今日の日はさようなら  

 日が短くなって、午後からは油断していると、あっという間に黄昏時になります。日が暮れかけて沈むまでの間を、逢魔が時などとも言います。刻々と変わる空の色を眺めていると、ふと魅入ってしまうからでしょうか。

『12月1日 16:05』
日が沈む

『12月1日 16:09』
日が沈む2

『12月1日 16:11』
日が沈む3

 もう暫らく夕景に魅入って居たかったのに、トプっと日が沈みました。曇り空のせいで、残照の余韻も残してくれません。「今日の日はさようなら」ですね。「夜はやさし」大人の世界ですから。



                    

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