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長森原の管領塚  

 永正6年(1509)7月、関東管領上杉顕定は、謙信の父長尾為景に討たれた弟越後守護上杉房能
の仇討ちを名分に、越後に攻め入り府内を制圧した。しかし、顕定の越後統治は強硬で国人の反発
をまねいた。翌永正7年(1510)6月20日、長森原の合戦で為景に敗れ自刃する。

 越後守護家から関東管領家の家督を継ぎ44年。山内上杉家の武威を高めた上杉顕定は、越後魚沼
長森原の地にて没す。享年57歳、戒名は海龍寺殿皓峯可諄大居士。


『長森原』坂戸山城と六万騎山城との間の野が長森原。六万騎山西郭跡の山頂より眺める。
長森原

『管領塚史蹟公園』管領塚と伝わる関東管領上杉顕定の墓を整備し公園化したもの。。(約800㎡)
管領塚史跡公園

『関東管領上杉顕定公墓所』公園に整備されたとき、元の塚を移築した。
関東管領上杉顕定公墓所

『追悼碑』昭和63年10月吉日とあった。
追悼碑
 上田とは、南魚沼市六日町付近の古名である。
上田史談會

 新潟県南魚沼市下原新田の周辺には、かつて長森原の戦いの戦没者を埋葬した伝承をもつ塚が点在
していた。(下原百塚)その中で一際大きな塚が管領塚と呼ばれ、上杉顕定の墓と伝えられていた。
 近代に行われた発掘調査では鎧通しの他、武具や人骨も出土したいう。現在の管領塚は、史跡公園
として整備されたとき元の塚を移築したものである。


『長森原からの坂戸山』
坂戸山
『坂戸山山頂部』
山頂部

 関東管領上杉顕定は、此方でご覧ください。
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category: 歴史よもやま話

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コメント

こんにちは。

 上杉 顕定は関東争乱期の40年以上にわたって関東管領を務めた。とあらましたが、今でも市民から親しまれているようです。

inkyo #mQop/nM. | URL
2017/01/10 17:15 | edit

inkyoさん、こんばんは。

群馬県藤岡市に管領府のあった平井城祉があります。

上杉顕定は、越後で生まれ、関東で管領として活躍し、終焉は
越後で。戦国の世の武将は、戦乱の中で亡くなるのですね。

無才 #- | URL
2017/01/10 18:11 | edit

こんばんは

上杉宗家のようですが、この頃の歴史は、
教えてもらったのか定かではありません。
似たような名前で、混乱してしまいます。

無才さんの説明が頼りになっています。


one0522 #bmlW70E6 | URL
2017/01/10 19:14 | edit

ワンさま、こんばんは。

扇谷上杉家や他の上杉諸家も関東管領を継承する家格をもっていましたが、
事実上の宗家、山内上杉家が関東管領を独占していました。

関東管領とは、室町幕府が設置した鎌倉府の長官である鎌倉公方を補佐す
るために設置した役職名です。

鎌倉公方は、足利将軍から任命される正式な幕府の役職ではなく、鎌倉を
留守にしている将軍の代理で留守居役です。

山内上杉氏は、鎌倉の山内(鎌倉市山之内)に居館を置いたことから山内
の家名が興りました。

扇谷上杉氏は鎌倉の扇谷(現在の鎌倉市扇ガ谷)に居住したことから扇谷
の家名が興りました。


戦国時代は、天地逆さまの下剋上の時代ですから混乱するのも当然です。
私も資料を当たりながら書いています。

無才 #- | URL
2017/01/10 22:11 | edit

歴史の舞台ですね!

長尾家と上杉家の関係は本当に戦国時代ならではのものですね。
謙信公までの歴史を自分もこんど詳しく勉強してみようと思います。

ガンダム #iL.3UmOo | URL
2017/01/11 08:08 | edit

ガンダムさん、おはようございます。

南北朝の動乱期、越後魚沼に本拠を置く新田党の大井田氏など南朝方を掃討するため、
初代関東管領山内上杉憲顕は、配下の守護代長尾景忠に越後を平定させました。
長尾氏が越後守護代の地位を築いた最初ですね。

長尾為景は、主家の関東管領山内上杉顕定を打ったことになります。その上杉家の名跡
を謙信が継ぐことになるのですから、下剋上の戦国時代は面白いというべきですね。

無才 #- | URL
2017/01/11 10:10 | edit

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